>現代ビジネス >「カルト権力」とは何か…青木理が安倍銃撃「以前」「以後」に書いたこの時評は日本人必読である >青木 利 によるストーリー • 7 時間前 >「闘うジャーナリスト」青木理氏が注目すべき新著『カルト権力』(河出書房新社)を刊行した。 (略) >嵐が過ぎるのを待つ者たちへ >元首相の政治思想や政治姿勢には微塵も賛意を覚えなかった私ですら憤りを抱くのだから、元首相の姿勢や各種政策を高く評価し、再登板すら望んでいた者たちは、その元首相が理不尽に殺されてしまったことを心底嘆き、強く憤り、猛り、その原因となったカルト教団に満身の怒りをぶつけて当然ではないのか。
そうですね。
>なのに、現実はどうか。 >元首相をひたすら称揚して追随していた者たち――特に政界の追随者たちは、教団との関係を追及されて自らに火の粉がかかるのを恐れ、まさに嵐が過ぎ去るのを待つかのように首をすくめているのみ。 >一部の追従者は教団との関係をメディアに追及され、「知らなかった」「指摘されて初めて知った」などとトボけるだけ。
自己の意思を示せば、当事者・関係者となる。示さなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がない。だから、日本人は常に孤高の人となり高踏派ということになる。
>バカを言ってはいけない。 >票集めのために動員されたポッと出のタレント議員の類ならともかく、当選回数を積み重ねたベテラン議員があのカルト教団とその本質を知らなかったはずがない。
賢い人は「純粋によく観察する」が、そうでない人は「自分の期待したもの」しか見ようとしない。
>いや、もし本当に知らなかったというなら、自らの不明を心から恥じ、自らが称揚した元首相の死を嘆き悲しみ、その命を奪う原因となった教団に全力の怒りをぶつけて事態の解明に全霊を傾けるべきではないのか。
そうですね。日本人は時流を泳いで渡ることしか考えていませんね。それは力泳ですね。 ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
>だが、自らの過ちも含めてすべてを明らかにし、身を投げ打って教団を追及しようと声を上げる者は1人たりとも出てこない。
意思の無い人間には責任も無い。日本人に責任感なぞ出るはずもない。大日本帝国の崩壊の時もそうであった。 “誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
>結局のところ、彼ら彼女らの本性はその程度だということなのだろう。
そうですね。信頼するに足る人間ではないですね。
>自らが称揚し続けた政権の主が銃殺されるという決定的重大事を前にしても、悔い改めることもなく、憤りを露にすることもなく、政治生命を賭けて真相の解明と教団の追及に全力を傾けることもなく、カマトトぶって嵐の過ぎ去るのを待つ。
日本人は知識を評価するが、知恵を尊ぶことが無い。暗記に励むが考えを深めることが無い。
>国の誇りとか、国を愛せとか、国民の生命を守るのが政治の使命などと常日ごろは勇ましいことを口にしていても、いざとなれば我が身の保身と政治的打算が第一。
日本人には現実があって非現実 (考え) がない。だから、処世術 (損得勘定) があって哲学 (あるべき姿) がない。かくして保身と打算に行き着くしかない。英米流の高等教育は役立たない。
>今回の歴史的重大事件は、そういう自称愛国者たちの薄っぺらな仮面も無惨に引き剥がして見せた。(2022.10)
そうですね。日本人には表面があって、内面が無い。だから、つかみどころがない。人間に信用がない。 我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。音読が言語の習得には欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり' 上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)
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