>AERA dot. >戦時中に日本で“ギフテッド”教育か 天才児を集めた英才教育の実態「米国に勝つ発明を」 >7 時間前 > 太平洋戦争末期、日本政府が特別に才能のある子どもたちに「特別科学教育」と呼ばれる英才教育を始めた。 >1944年の帝国会議の資料によれば、天才に特別な勉強をさせて、「アメリカ」に勝つ発明をさせるという荒唐無稽なことであった。
‘泥棒を見て縄を綯う’ やりかたですね。
>では一体、「特別科学教育」ではどんな教育がなされてきたのか? >1997年に発見された金沢大学の資料にあたると、その教育の実態がわかってきた。 ><阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部抜粋・再編集> >* * * >■52年後に発見された資料 > 2021年12月、私は雪が舞う金沢大学の資料館にいた。 >金沢市郊外にある大学の角間(かくま)キャンパス北側にある資料館には、加賀藩校の扁額(へんがく)や学術文書など長きにわたる金沢の学びの歴史が貴重な資料とともに展示・保存されている。 > 私の目的は、日本政府が太平洋戦争末期に行った「特別科学教育」と呼ばれた英才教育の資料を閲覧することだった。 > 特別科学教育が行われたのは、太平洋戦争末期の1945年から敗戦をへて2、3年のわずかな期間だけだ。 >そのためか、こうした英才教育を日本政府が制度化して行っていた事実はあまり知られていない。 >私も知らなかった。 >だから、戦時中とはいえ、国が成績優秀な児童生徒を選抜した特別科学教育を行った歴史があったことを知ったときは、驚いた。 >私は、その教育システムや内容、授業を受けたかつての子どもたちを取材することで、現代のギフテッド教育のあり方を考えるヒントになると考えた。 > 書籍や研究論文を探した。 >当事者の回顧録や教員や学者による論文はいくつかあった。 >だが元資料を国が残している形跡はない。 >当時の資料に直接あたりたいと考えていたところ、金沢市に本社がある北國新聞の過去記事に行き当たった。 >戦後52年たった1997年、資料が発見されたとの記事が載っていた。 > それによると、金沢大学理学部(当時)の書庫に保管されているのを、創立50年史を作成するための資料を探していた職員が発見したとのことだった。 >資料館に閲覧の申請をすませ、金沢へ向かった。 > 資料館職員の女性が倉庫から運んでくれた資料は、厚さ10センチほどのA4判が2冊。黄ばんだ表紙には、「科学教育関係 金沢高等師範学校」と書かれていた。 >目当ての資料だった。 >資料は、計数百ページに及ぶざら紙がひもでとじられ、ところどころ文字が消えていたり破れたりしていた。 >戦時中や戦後の混乱期に書かれたものであることをしのばせた。 > その資料をひもとく前に、まず日本政府が特別科学教育を導入した経緯を、帝国議会の会議録からたどる。 >インターネットで検索すれば「帝国議会会議録検索システム」からすぐに読むことができる。 > 1944年9月、今の国会にあたる帝国議会は、戦争を追認し扇動する翼賛体制に変わっていた。 >衆院議員が「戦時英才教育機関」の設置を政府に求めていた。 > その会議録(衆議院事務局、1944年9月10日 第85回帝国議会衆議院建議委員会)を読むと、当時の戦況を背景にした切迫感や、特別な英才教育を導入しようとした荒唐無稽な動機を知ることができる。 > 森田重次郎議員 「今の戦争は科学の戦争である。 >だから結局新しい精鋭な武器を持った方が勝つのだ。 >それには発明をしなければ駄目ではないか(中略)。 >青少年学徒の中から、最も天才的な頭を持って居る者を簡抜して、国家の施設で偏ったと言われるかも知れないけれども、いわゆる天才を伸ばす意味に於ける特別な勉強をさせて(中略)、『アメリカ』に勝つ、本当に新しい発明をして貰おうではないか」 >■東京、金沢、広島、京都で行われた > 対戦国のアメリカに勝つため、国が天才児を選抜して英才教育を与え、新兵器を発明してもらおう、という提案である。
拙速主義ですね。
>当時は、日本軍が占領したサイパン島が米軍によって陥落させられるなど、戦況が日に日に悪化していた時期である。 >答弁にたった文部省の高官は、大まじめでこう答えている。 > 今井健彦文部政務次官 「至極同感であります。(中略)戦時に於きましては適当な一方途と考えますので、十分研究致しまして御期待にそうよう致したいと思います」 > そして年が明けた1945年1月、日本政府は、特別科学教育を始めた。 >当時の文部省の広報誌「文部時報」などによると、東京、金沢、広島、京都の各高等師範学校と東京女子高等師範学校計5校で行われていた。 > だが、特別科学教育の名の下に、子どもたちはどんな基準で選抜され、どんな内容の教育が行われ、講師はどんな人たちが務めたのかは、会議録や文部時報からは、読み取ることができなかった。 > 金沢大学資料館に保管されている資料では、その具体的な内容を細かく知ることができた。 >大変貴重な資料であった。 > 資料をひもといてみる。 >まず目についたのは、「金沢高等師範学校特別科学教育実施要項 昭和十九年度」と青字で書かれたページ。 >児童生徒の選抜基準についてこう定めていた。 > 1 科学技術に特に優秀なる成績を示すもの > 2 資質の全般にわたり普通以上のもの > 3 意志強固にして忍耐力強きもの > 4 身体強健なるもの > 5 父母および近親者に科学技術者を有するもの > 6 本人および保護者に熱意あるもの > 7 家庭の環境の良否 > これらの項目に沿い、各中学校や国民学校で、定数の2倍の児童生徒を選抜し、選抜委員会で審査した、とあった。 >そして北陸各県の中学1~4年生と、国民学校4~6年生から、各学校長が選抜して推薦していたという。 > 全体で何人の児童生徒が選ばれたのかまでは読み取れないが、1クラスあたりの人数は15人ほどの少人数で組んだとも書かれている。 >講師は、高等師範学校の教員らが教壇に立ったという。 >■時間割は理数科目ばかり > 課程表もとじられていた。
科学は哲学 (科学哲学) ですから、子供には無理ですね。 恐竜時代には誰一人人間はこの地球上に住んでいなかった。だのに、古生物学会では、化石などを証拠に事細かに恐竜の生態を説明する学者が現れる。彼は自己の考えを述べているのである。これは、見て来たような嘘に違いない。見て来たような嘘は哲学 (考え) であり、学問であり、価値がある。 日本では子供が一生懸命現実の勉強をする。英米では大人が一生懸命に非現実 (考え) の勉強をする。子供の勉強は現実 (事実) に関する勉強である。大人の勉強は非現実 (考え) に関する勉強である。わが国では大人は他人の受け売りと後追いの練習をしている。だから、いつまでたっても新天地を切り開くことはない。 日本人には現実 (事実) があって、非現実 (考え) がない。文法に時制 (tense) というものがないと、非現実の内容を文にすることができない。であるから日本人は世界観 (world view) の内容を述べることができない。 文が無ければ発声に意味も無く、考えにもならない。個人の想いはきれいごとになって終わる。 日本語には時制が無い。だから、日本人が英米流の高等教育 (哲学) を学ぶと失敗しやすい。思考停止では無哲学・能天気となって哲学 (考え) にならないからである。
>「科学教育」という名前の通り、理数教科を重点的に教えていたことが読み取れる。 > たとえば、制度開始当初の45年1~3月の中学1年のカリキュラムは、全360授業時間のうち、数学63時間、物象(物理・化学)54時間、生物36時間、工作36時間で、これら理数科目を合計すると全体の5割以上を占めていた。 > 国語は27時間と比較的少なく、音楽や図画などはゼロ。体操は63時間と多く、当時「敵性語」とされた英語を教えていたという記録もある。 > 押さえておきたいのは、このころ、選抜されなかった全国のその他多くの子どもたちは、戦禍で不足する労働力を補うため、勤労動員として軍需工場や食料生産工場などで強制的に働かされていたことだ。 >また、特別科学教育を受けた児童生徒の名簿を見ると、女性の名前は一人も見当たらなかった。
東京女子高等師範学校の場合は女性はどうなっていたのでしょうかね。
>勉強ができたのは、選ばれた一部のエリートだけだったという残酷な事実である。 > しかし、日本は敗戦。 >特別科学教育はその後も続き、直後の45年10月には新しい特別科学教育要項案が、資料に残っていた。 > 当初の教育要項にはその目的が「皇運を扶翼し奉る先達を育成する」とあったが、敗戦後には「国民生活を飛躍的に向上し、進んで世界の平和に寄与すべき新科学文化を創造せんが為」に変わっていた。 > だが文部省は46年10月、翌47年3月をもって、特別科学教育を打ち切ることを決め、各学校に通知した。 >理由を記した文書もその資料の中にあった。 >「戦後の国内事情の著しい変化により、制度化して行うことは適当ではない」ということだった。 >当時、敗戦国の日本では、連合国軍総司令部(GHQ)による教育の民主化が進められていた。 >打ち切りと同じタイミングで、「教育の憲法」と言われる教育基本法が公布・施行された。 > わずか数年の短命で終わった特別科学教育。
浅知恵ですね。 我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。自由とは思考停止の言い逃れになっている。 とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。音読が言語の習得には欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり' 上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)
>選ばれて教育を受けた子どもたちが確かにいた。 >戦後、どういう生涯を送ったのか。 >この教育をどう振り返るのだろうか。 >今はもう90歳前後となる彼らの証言を得ようと、急いだ。 > (年齢は2023年3月時点のものです) > ※【後編】<ギフテッド教育のヒントになるか 戦時の天才児教育「悪だとは思わないが…」元大蔵相・藤井裕久さんが語る>に続く >●阿部朋美(あべ・ともみ) >1984年生まれ。 >埼玉県出身。 >2007年、朝日新聞社に入社。 >記者として長崎、静岡の両総局を経て、西部報道センター、東京社会部で事件や教育などを取材。 >連載では「子どもへの性暴力」や、不登校の子どもたちを取材した「学校に行けないコロナ休校の爪痕」などを担当。 >2022年からマーケティング戦略本部のディレクター。 >●伊藤和行(いとう・かずゆき) >1982年生まれ。 >名古屋市出身。 >2006年、朝日新聞社に入社。 >福岡や東京で事件や教育、沖縄で基地や人権の問題を取材してきた。 >朝日新聞デジタルの連載「『男性を生きづらい』を考える」「基地はなぜ動かないのか 沖縄復帰50年」なども担当した。
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