>AERA dot. >ギフテッド教育のヒントになるか 戦時の天才児教育「悪だとは思わないが…」元財務相・藤井裕久さんが語る >昨日 10:00 > 戦時中に、特別に才能のある児童生徒を集め行われたという「特別科学教育」。 >現代のギフテッド教育のあり方を考えるヒントになるだろう。 >【前編】では、金沢大学で発見された資料を元に、当時行われた教育について解説した。 >後編では、実際に金沢大学で特別科学教育を受けた、元財務大臣の藤井裕久さんと、京都大学で特別科学教育を受けた片岡宏さんのお二人に当時何が行われていたのかを聞いた。 ><阿部朋美・伊藤和行著『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』(朝日新聞出版)より一部抜粋・再編集> >【前編】<戦時中に日本で“ギフテッド”教育か 天才児を集めた英才教育の実態「米国に勝つ発明を」>からの続き >* * * >■「自分たちだけ」の後ろめたさ > 東京・白金台にある集合住宅。 >ここで事務所を構える元財務相の藤井裕久さん(享年90)は、秘書の男性に支えられながら応接室のソファにゆっくり座った。 > 私が訪れたのは21年12月。 >テレビでときおり見ていた丸顔の優しそうな笑顔はそのままだったが、丸顔だったほおは、げっそりとこけ、グレーのスーツを着ていてもやせた様子がわかるほどだった。 >年齢を感じさせた。 > それでも、大蔵官僚から政治家に転身し、非自民連立政権時の大蔵相、民主党で幹事長なども務めた大物政治家だ。 >2012年に政界引退してからも、講演やテレビ出演などで弁舌をふるってきた。 >「あの戦争を経験したものとして、戦争につながることは絶対反対」。
日本人には世界観がない。ノンポリ・政治音痴の日本人の国民性では、いつ戦争になるかわかりませんね。
>まっすぐ私を見据えて言う目には、力強さが宿っていた。 >だがこの7カ月後に亡くなった。 > 藤井さんは、金沢で特別科学教育を受けた一人だ。 > 生まれは東京・本郷。 >開業医の次男で、1945年4月に東京高等師範学校付属中学の1年生になってまもなく、担任教諭から「科学組へ行け」と言われたという。 > 各学年から15人ぐらいが選ばれていた。 >ただ当時は米軍爆撃機のB29による東京空襲が相次いでおり、東京を離れて金沢へ集団疎開し、授業を受けろという指示だった。 > 出発は同年5月25日。 >前日には自宅周辺が空襲にあい、25日当日も東京駅などが爆撃され、明け方の空は真っ赤に染まっていたという。 > どんな思いで金沢への汽車に乗ったのか。 >私が聞くと、藤井さんはゆっくり窓の外の空を見つめて言った。 >「選ばれた自分たちだけが金沢に逃げていくという感覚でした。 >自分たちだけが教育を受けるということが、どうにも後ろめたくてね。
卑怯者ですね。非国民ではないですね。
>空襲で亡くなった同級生もいたので、なんというんでしょうね。 >重たい気持ちでした」 とはいえ、当時はまだ中学生。 >同年代の子どもたちが集まり、学習だけでなく寝食もともにする体験は、親がいない寂しさを紛らわせてくれたという。 >柔道をしたり河原で仕送りのコメを炊いて食べたり。 >「思い出は『空腹』だったこと。 >お互いに助け合った仲間とは、生涯の友人になりました」 >■「君たちは新型兵器をつくる先兵だ」 > 一方、金沢での授業は厳しかった。 >三角関数や微分積分といった理数系の内容が多く、同級生と「偏っているなあ」と話した覚えがある。 >日本の原子核物理学の父といわれた仁科芳雄博士の特別講義もあった。 >「君たちは新型兵器をつくる先兵だ」と言われたことを覚えている。
実学 (技術) の勉強ですね。
> 当時の藤井さんには何のことかわからなかったが、その年の8月、広島と長崎に原子爆弾が落とされたことを知らされると、「新型兵器とはこのことだったのか」と思い至ったという。 >藤井さんは「米国はすでに完成させていたのに、日本は中学生に科学教育を受けさせていたのだから、腹が立ち、情けなくなった」と回顧した。
我が国における ‘受け売りと後追い’ の教育の成果でしょうね。ナウな感じのする日本人の科学教育でしたね。日本では子供が勉強する。米国では大人が勉強する。これで勝負はすでについている。日本人の子供だましは直らない。
> 終戦を告げる玉音放送は、寮の庭で聞いたという。 >その数日後、同級生らとともに金沢駅から上野駅までの汽車に乗って帰った。 >「やっと終わった、これでぐっすり眠ることができる」。 >こみ上げた思いは、これだけだったという。 >「私はあんまり勉強が得意ではなくて、当時受けた教育についてはほとんど覚えていないんですよ。 >仲間と濃密な時間をすごし、命を永らえたという意味では、特別科学教育は受けてよかったとは思いますが……」と複雑な表情で語った。 > 時代は違うが、国が英才教育や才能教育を行うことをどう思うか、と最後に聞いた。 >藤井さんは「英才教育が悪だとは思わない」と言った。 >その上で「時の政権が教育や科学技術を戦争に利用する危険性は常にある。
‘ロシアが力による現状変更を行っている国はG7(主要7カ国)では日本だけだ。北方領土だ。だから、ウクライナ問題で、ロシアを一番強く批判しなければいけないのは日本だ。’ (小野寺元防衛相) プーチン大統領は核兵器を放棄したウクライナに核をかざして恫喝した。これにより我が国の非核三原則に依拠した安全神話は消え去った。非核三原則とは 核兵器を「持たない、つくらない、持ち込ませない」の三原則を指すもの。1967年 (S42) 12月 佐藤栄作。 日本人のお花畑はもうない。 ‘ウクライナでの戦争の教訓は、抑止力によって未然に戦争を防ぐ方が、侵攻してきた敵を後退させることよりも遥かに望ましいということだ。’ (マシュー・ポッティンジャー)
>だから、戦争のために行われた歴史があることは、教訓としてほしい」。 >戦争を経験した政治家の、重い言葉だった。 >■「ノアの方舟」に乗った少年 > 特別科学教育は、京都でも行われていた。 >「君、ノアの方舟に乗らんか」 > 1945年4月末、日本軍の飛行場をつくるため奈良県の田んぼを土で埋める勤労動員をしていた当時中学3年の片岡宏さん(92)は、担任の先生から突然声がかかったことを覚えている。 > 校長室に連れて行かれ「明日から勤労はしなくていい。 >代わりに特別科学学級の選抜試験に専念せよ」と言われたという。 >片岡さんは、「何のことかわからなかったが、働かなくていいことがうれしかった」と、当時の気持ちを教えてくれた。 >だから、担任の先生が旧約聖書の「ノアの方舟」を例えに出して誘った意味を、片岡さんは京都へ行ってから理解した。 > 授業を受けることになった京都一中は、建物の一部が工場となっていた。 >教室の一部も倉庫として利用され、その他の教室はガラガラ。 >地元の生徒は、みな軍事工場や農場へ働きに行っており、教育を受けているのは、片岡さんと同様に特別科学教育を受けることになった生徒だけだと思い知らされた。 >片岡さんは「こんな状況で教育を受けていられるのは自分たちだけなんだ」と誇らしく思った。 > 片岡さんはいま、京都市の京都大学近くの自宅で子どもや孫に囲まれた生活を送る。 >京大医学部を卒業後に入った製薬会社で働きながら弁理士の資格を取り、退社後は個人事務所を開いて国内外の企業の特許出願のサポートをしてきた。 >■教科書は一切使わない > 私が片岡さんのことを知ったのは、自身が受けた特別科学教育について、研究論文にまとめていたためだ。 >2005年に発表した「京都帝国大学主導の特別科学教育について」と題した論文には、国の計画や選抜試験などが細かく整理されている。 >そこでは、特別科学教育の京都での授業について、教科書は一切使わず、口述筆記と演習や実験などが行われたと記している。 >「密度の高い内容であった」とも振り返り、具体的には、「数学は一時間目から級数展開で度肝を抜かれ、さらに関数論・確率論などへ発展する。 >物理は微分・積分の知識を前提とした些いささか難解な講義であった」と述べている。 > 講師には、当時京都帝大教授で、日本人初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士がいたことも明かしている。 >「湯川教授が毛髪をポマードで極めて丁寧に整髪しておられたことが記憶に残っている」と当時の思い出を記していた。 > 片岡さんの生まれ育ちは奈良県。 >地元中学では学年トップクラスの成績ではあったが、選抜された理由は誰からも説明されなかったという。 >関西の各府県から選ばれた約90人の生徒とともに、京都で下宿しながら、京都一中で特別科学教育を受けた。 > このころの日本はすでに戦争末期。 >米軍が沖縄に上陸しており、大阪にも空襲が続いていた。 >奈良の自宅では食卓におかずはのらず、白米の配給も減っていた。 >母に連れられ農家に野菜を分けてもらう貧しい生活を送っていた。 >■ほとんどは京大、東大、阪大に進学 > 戦後の48年3月、他校より1年遅れて京都での特別科学教育も終了した。 >片岡さんの論文によると、ほとんどの生徒が京都大学や東京大学、大阪大学などに進学したという。 >ただ、片岡さん自身は職場や家族にも、特別科学教育の経験を話すことは避けてきた。 >エリート教育を受けたことを言うことは「自慢だ」と批判的にとらえられかねないと感じていたためだ。
それは序列社会では気を付けなくてはならないことですね。
>「日本社会、特に学校は『超平等主義』になった。
そうですね。超平等主義は没個性教育の言い換えにすぎませんね。
>みなで同じレールに乗ることが大事という社会になってしまった」と今も感じている。
没個性の永続ですね。日本人には意思が無い。だから、個人を区別することが難しいですね。
> そんななか、同じ教育を受けた特別科学教育のクラス仲間とは、同窓会を定期的に開いてきた。 >年齢とともに亡くなる仲間も増え、年賀状をやりとりする程度になったが「あの頃の思い出を語れる仲間は生涯の友」と大切な思い出となっている。 > 柔和な片岡さんの表情が固まった瞬間があった。 >私が、特別科学教育の評価について「いい制度だったと思うか」と聞いた時だ。 >少し間をおき、片岡さんは言った。 >「私たちがエリート意識のような考えになることはありませんでしたよ。 >あの時代に、特別な教育を受けさせてもらえたことは本当にありがたかった。 >ただ、だからこそ、受けたくても受けられない同級生が多くいたことをずっと考えてきた。 >もろ手を挙げてよかったと大きな声では言えないのは、今でもそうです」
それは難関出身者の用心ですね。
> 90 歳をすぎた今でも、慎重に言葉を選びながら話す姿が、印象的だった。 >(年齢は2023年3月時点のものです) >●阿部朋美(あべ・ともみ) >1984年生まれ。 >埼玉県出身。 >2007年、朝日新聞社に入社。 >記者として長崎、静岡の両総局を経て、西部報道センター、東京社会部で事件や教育などを取材。 >連載では「子どもへの性暴力」や、不登校の子どもたちを取材した「学校に行けないコロナ休校の爪痕」などを担当。 >2022年からマーケティング戦略本部のディレクター。 >●伊藤和行(いとう・かずゆき) >1982年生まれ。 >名古屋市出身。 >2006年、朝日新聞社に入社。 >福岡や東京で事件や教育、沖縄で基地や人権の問題を取材してきた。 >朝日新聞デジタルの連載「『男性を生きづらい』を考える」「基地はなぜ動かないのか 沖縄復帰50年」なども担当した。
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