2023年07月01日(土) 

 

>東洋経済オンライン   >「40代がやる気を失うのは会社のせい」という根拠 なぜ日本の組織は社員のやる気を奪うのか   >河合 薫 の意見 • 2 時間前   

>社員のやる気を奪う会社の仕組み、部下に責任を押しつける上司――。   

>キャリアの節目の年齢に入った40代は苦しい立場に置かれることも多いでしょう。    

>なぜこのような状況に追いやられねばならないのか。   

>900人超にインタビューを行い、働く人たちの思いを聞き出してきた健康社会学者の河合薫氏が、鋭く、そして温かく40代のキャリアを考察します。   

>河合氏の新刊『40歳で何者にもなれなかったぼくらはどう生きるか』(ワニブックスPLUS新書)より一部抜粋・編集のうえ、お届けします。   

(略)

>部下に責任を押しつける上司   

>例えば、日本の会社では意思決定には、稟議が必要という旧態依然とした制度が存続していますが、これは「責任の分散」です。   

>下からすれば「ちゃんとハンコもらったし」と言い訳になるし、上からすれば「同意したのは私だけじゃない」と責任逃れし、現場に責任を押し付けることもできます。   

 

日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任がない。だから、日本人の社会にはもともと西洋流の責任 (responsibility) 観念が無いのです。日本人の責任は義務ばかりで、牛馬の苦しみがある。        

 

>「常務の口利きで大口のクライアントと契約を結びました。   

>ところが、3カ月間で契約を解約されてしまった。   

>担当者は僕の部下。   

>常務の指名でした。   

>クライアントはけっこうなクレーマーで、担当者(部下)もお手上げ状態でした。   

>トラブっていることは常務にも伝えましたし、何度か『担当を替えたほうがいいのでは?』と進言もしました。   

>でも、常務は『替えなくっていい』の一点ばり。   

>仕方がないので、担当者に補佐をつけ、僕もこまかな指示を出して、なんとか対処していたんです。   

>契約解除されてから一週間ほど経った頃です。   

>いきなり常務に呼ばれ、『今回のことは、おまえの責任だ』と。   

>耳を疑いました。   

>あとから知ったのですが、その前日、常務は契約破棄を知った社長に呼び出され、『今回の案件は、常務直々の管理下で行われていた事業である。   

>契約解除にいたった最終責任は常務にあり、すべての責任を常務が負う立場にある』と迫られたらしい。   

>慌てた常務は『私はカトウに担当を替えろと何度も言ったが、カトウは替えなかった。   

>責任は担当を替えなかったカトウに取らせます』と弁明して、社長を納得させた。   

>たしかに、担当を替える権限は僕にあります。   

>でも、頑としてゆずらなかったのは常務です。   

>結局、私は始末書を提出させられ、3カ月間の減給処分となりました」   

>見るからに誠実そうなカトウさんは、私のインタビューに協力してくれたひとりです。   

>インタビューで、私が「今まで会社を辞めようと思ったことはありませんか?」と質問したところ、興奮気味に、それでいて時折大きなため息をつきながら、この“事件”を教えてくれました。   

>カトウさんの事件はものの見事に上司の無責任さを物語る、極めて優れたケースです(ちょっと変な評価ですが)。   

>上司は思いつきでものを言うものですが、思いつきはたいてい、責任転嫁です。   

>責任を押しつけた常務さんは「俺ってズルいかも?」なんて微塵も感じていません。   

>“ジジイの壁”に巣くう役員クラスのスーパー昭和おじさんたちには、内省の回路がないのです。   

>「担当者を決める裁量権」はカトウさんにありましたから、それを逆手にとり、常務さんはカトウさんに責任を取らせることが自分の責任と都合よく解釈しました。   

>その間のプロセスなどまったく関係なし。   

>「会社を辞めようかな」とカトウさんがやる気をなくそうとも関係なし。   

>「サボタージュ・マニュアル」に書かれていることは、「保身」に役立つ行為であり、人間のネガティブな一面をあぶり出しているのです。   

>そもそも人間の記憶は川のように流れていて書き換えが可能です。   

>ですから「言った言わない」「聞いた聞いていない」の議論はつねに不毛で、権力なき者に勝ち目はありません。   

>人間には自分の主張を裏づける意見しか見ない、聞こえないという習性もありますから(「確証バイアス」と呼びます)、「無責任な上司」は相当に手強いのです。   

>もの言わぬ組織のつくり方   

>おまけに日本の会社組織には「サボタージュ・マニュアル」に書かれていないサボタージュが結構あります。   

>そのひとつが「精神論」です。   

>スーパー昭和おじさんは精神論が大好物。   

>二言目には「頑張ればなんとかなる!」と部下に無理を押しつけます。   

>社員が身を粉にして働き、体を壊すか精神を病むかの直前で「いい結果」を出すと「ほら、やればできるじゃん」と表彰したりするのです。   

>組織がブラックであればあるほど「下」は本音が言えなくなり、社員のやる気を奪う残念な組織ができあがっていきます。   

>日本の文化にされてしまった「OMOTENASHI=おもてなし」も、ある意味「お客さまは神様」という精神論の強要です。   

>本来、いいサービスとは、サービスする人とサービスを受ける人とが互いに「敬意」を払うことで成立するのに、おもてなしはサービスする側の自己犠牲のうえに成り立っている側面が多分にあります。   

>そもそも「おもてなし」をウリにするなら、「おもてなし特別手当」をつけてもいいと思うのですが、「上」にはそんな発想は微塵もありません。   

 

序列作法は上下社会 (序列社会) の礼儀ですね。特別手当は無くて当然です。   

 

“立ち枯れた木々”はサボタージュをやめない   

>責任を取らない、現場のせいにする無責任なリーダーは世界中にいます。   

>しかし、日本が欧米と大きく違うのは「ファクトに情をかぶせる文化」です。   

>欧米ではとんでもない決定をしたリーダーや、会社に損失を出したリーダーはクビになったり、地位を剥奪されたりします。   

>これに対して日本では、とんでもないリーダーをかばう人たちがいるのです。

 

そうですね。ヒットラーもムッソリーニも駄目であったが、東條は助かった。   

 

>情は必ずしも悪いわけではありません。   

>しかし、“ジジイの壁”に巣くう輩は、自分たちが築き上げた楼閣を守るために結託する術にも長けているので、現場は永遠に上の怠慢のツケを払わされ続けます。   

 

それは上下社会の宿命ですね。   

 

>つまるところ、会社はやる気を奪おうとしているのです。   

>「保身」という2文字が大好物の“立ち枯れた木々”はサボタージュをやめません。   

 

日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任もない。日は暮れて道遠し。      

 

>このありのままの現実を受け入れてください。   

 

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’  (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下) 

日本人には意思がない。だから責任観念もない。真の責任者を社会の中から見つけ出すことができない。それで社会が混乱する。とかくこの世は無責任となっている。   

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り)  

 

>しかも、しかもです。   

>超スーパー昭和おじさんたちの集団である経済界が、40代以上の会社員のやる気を奪おうとするサボタージュに手を貸しているという現実も忘れてはなりません。   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 

 我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

 

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。音読が言語の習得には欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。         

 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり'  上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)           

 

 

.

 

 

 

 

 

 


閲覧数82 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2023/07/01 10:43
公開範囲外部公開
コメント(0)
  • 次項有コメントを送信
    閉じる
    名前 E-Mail
    URL:
■プロフィール
シンちゃんさん
[一言]
明るい未来社会を築こう
■RSSフィード
RSS 1.0 RSS 2.0 Atom 1.0
■このアルバムのURL
https://e-jan.kakegawa-net.jp/blog/blog.php?key=855939