2023年07月19日(水) 

 

>産経新聞   >久保田勇夫の一筆両断 「戦後レジームからの脱却」②―されどわれらが時代「60年安保闘争」の余韻―   >6 時間前   

>昭和37年東京大学に入学した。   

>そこには直近の激しかったいわゆる「60年安保闘争」の余韻が強く残っていた。   

>キャンパスには、中華人民共和国が定めた簡略化した漢字で書いた、学生運動家による政治的スローガンの看板が立っていた。   

>時折、そのリーダーたちが、宣伝カーの上からマイクを使って、一般学生に対して街頭デモへの参加や、抗議のためのストライキを実施することを呼び掛けていた。   

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っています。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。・・・・・日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)    

 

>われわれが入学する2年ほど前の昭和35(1960)年1月には、岸内閣(岸信介首相は安倍晋三元総理の祖父である)が、米国との安全保障条約の改訂条約に調印したが、それに反対する街頭でのデモを含む幅広い運動が起こり、6月には全学連のデモ隊が国会に乱入、警官隊との衝突の中で東大生樺美智子が死亡した。   

>新条約は結局、衆議院での強行採決を経て、参議院での採決を経ずに自然成立したが、混乱は収まることなく、同年7月岸首相は退陣し、池田勇人内閣が誕生した。   

>同内閣は「所得倍増計画」を発表し、社会の関心は、政治、それも安保闘争の争点であった「再軍備」から経済に移っていった。   

>私の大学における4年間は、この池田内閣およびその後を継いだ、岸信介の実弟である佐藤栄作を首班とする佐藤内閣の時代であった。   

>私には、こういう東京の雰囲気や動きには違和感があった。   

>何よりも、福岡から出てきたのは勉学のためであり、政治活動をするためではない。   

 

そうですね。大概の日本人はノンポリ・政治音痴ですからね。    

 

>戦争反対を唱える彼らの言う「戦争」とは抽象的なもののようであり、私が幼い頃地元で見聞きした苦難を伴った具体的な事柄とは無関係のもののように思われた。   

>われわれは福岡で、わが国のあるべき将来の姿を論じたが、ここではわが国の望ましい具体的な姿についての議論はなかったように思う。   

 

そうですね。日本人には世界観が無いからあるべき姿の内容は想定外になっていますね。   

 

>あったのは現に確立されていた制度の変更をどう防ぐかであった。   

 

何事もお変わりないことが良いことですね。   

 

>「戦後レジーム」との脈絡で言えば、これをいかにして守るかであったのである。   

>芦部信喜教授の「憲法」   

>昭和39年4月、法学部に進んだ。   

>我妻栄、宮沢俊義、田中二郎、団藤重光、岡義武、といった一時代を画した教授は引退しており、次の世代を担う中堅たちが台頭しつつあった。   

>その中で私たちの学年に対して「憲法」を講義した芦部信喜教授は地味な存在であった。   

>大変誠実そうな人で、講義はわかりやすかった。   

>ただ、はなはだ不遜なことではあるが、学者として本当に大丈夫かという印象を持った。   

>外地から復員して、既に成立していた「日本国憲法」を読み、その立派さに感激して涙が出た、と言うのである。   

>自分が冷静に取り組むべき研究対象である憲法に感激して、果たしてその客観的な評価ができるのだろうかという疑問である。   

>また、その主な条文の成立過程を詳しく説明してくれたが、その結論はいずれも、わが国と占領軍とのさまざまなやりとりの結果たどりついた現在の規定が最も適したものであるということであった。   

>両者の力関係と偶然も作用してたどりついた結論が、常にベストであるということはあり得ないのではないかと考えた。   

>後年、いわゆる芦部憲法は斯界(しかい)の本流となり、同教授は、晩年、学士院会員、文化功労者にも選ばれている。   

>優れた業績を残された結果だと思うが、当時としては予想できないことであった。

>私は、憲法はしっかり勉強しようと思い、宮沢俊義教授著のコンメンタール(逐条解説書)「日本国憲法」(日本評論新社)を購入した。   

>驚いたことに、そのすべてに英訳がついていた。   

 

英語は学問の基礎ですね。   

 

>著者はこの本の「はしがき」に「これについては、おかしいという批判があると思う。   

>(しかし)…日本国憲法制定の仕事は、…つねに当時日本を占領していた連合軍最高司令部の諒解(りょうかい)を得てなされたのである。   

>しかもそのときの諒解は、ことの性質上、英語を通じてなされたのである。   

>もちろん日本国憲法の正文は日本語であり、英語は単なる訳文にすぎないが、…その各条文を正しく解釈するために、その英訳が非常に参考になることは明白だろう」と書いている。   

>私は、遠く下って、1991年2月11日付の米国の有力誌「TIME」に、日本国憲法を「米国が原案を書いた憲法」とし、「1945年の勝者は、その敗者に対して、意のままに平和主義を教え込んだ」とあるのを見いだすことになる。   

 

それは幸運でしたね。現実直視が出来たのですね。      

 

>素晴らしい英語の「前文」   

>当時、日英両文を比較して注目したのは、憲法の「前文」の部分であった。   

>私はESSに所属し、英語のスピーチを得意としており、その評価には多少の自信があった。   

>そういう目から見ると、この憲法の「前文」は、英語のスピーチとしては素晴らしいものであった。   

>用いられている言葉は、そのコンセプトも含めて実に明快であり、話の構成もしっかりしていた。   

>しかし、日本文としてはそうではなかった。  

 

そうでしょうね。前文の内容は哲学 (考え) ですね。日本人は無哲学・能天気の民ですからその言葉も哲学表現には適していないのでしょう。    

 

>わが国の基本的なあり方を定めるべき憲法の「前文」ということであれば、それを構成する概念も、論理構成も、それらのベースとなる価値観も、日本のそれを踏まえたものでなければなるまい。   

 

そうですね。しかし、何もかもアングロサクソンの猿真似をするというもの難しいでしょうね。      

 

>その文章も立派な日本文であるべきであろう。   

 

それは無理でしょうね。それは伝統的に日本人の求めてきたものになっていない。    

照りもせず曇りもはてぬ春の夜のおぼろ月夜(づきよ)にしく物ぞなき (大江千里) 

 

>顧みて、私はこの大学時代に、わが国の制度的および思想的「戦後レジーム」の存在をはっきりと意識し始めたように思う。   

 

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。    

 

>くぼた・いさお 昭和17年生まれ。   

>福岡県立修猷館高校、東京大法学部卒。   

>オックスフォード大経済学修士。    

>大蔵省(現財務省)に入省。   

>国際金融局次長、関税局長、国土事務次官、都市基盤整備公団副総裁、ローン・スター・ジャパン・アクイジッションズ会長などを経て、平成18年6月に西日本シティ銀行頭取に就任。   

>26年6月から令和3年6月まで会長。   

>平成28年10月から西日本フィナンシャルホールディングス会長。   

 

 

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閲覧数87 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2023/07/19 09:26
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