>東京新聞 >魚雷発射レバーを手に叫んだ「くたばれ」 14歳で志願した元海軍特別少年兵・鈴木忠典さん(94) >オピニオン >11 時間 ><戦後78年 20代記者が受け継ぐ戦争㊤>デジタル編集部・小寺香菜子(29) > 機関銃の弾が飛び交い耳をかすめた。 >当たれば致命傷。 >それでもかまわず「くたばれ」と叫び、魚雷発射のレバーを引いた。 > 14歳で海軍に志願し、インドネシア中部に送り込まれた鈴木忠典さん(94)=東京都大田区。 >戦場では敵だけではなく、亡くなった仲間にも思いやりを持てなかった。 >「それが戦争のむごたらしいところだ。 >戦争ほど惨めなものはない」
政治的な解決手段を武力闘争に置き換えて決着を求める政治家達は地獄に落ちろ。
> 秋田県横手市出身。 >6人兄弟の5番目で「特徴も何もない、ぼんくらな子どもだった」という。 >そんな少年の心に、海軍艦隊が堂々と隊列を組んで進むニュースがまぶしく映った。
今でも軍事パレートは世の東西を問わず盛んですね。
>1943年、14歳のときに海軍特別年少兵に志願。 >海軍横須賀海兵団に入団し、水雷学校の特別訓練科で魚雷の発射方法などの訓練を受けた。 > 海軍特別年少兵 1941(昭和16)年、14歳以上16歳未満の少年を採用し、将来の中堅幹部候補として養成するために始まった。 >戦局の悪化で第一線に投入され、採用された約1万7000人のうち、5000人余りが命を落としたとされる。 >2005年の映画「男たちの大和/YAMATO」(佐藤純弥監督)の題材にもなった。 >◆「死ぬことを教える学校だ」 > 入校式での校長の言葉をいまだに覚えている。 >「死ぬことを教える学校だ。 >君たちは太平洋の防波堤になってもらいたい」。
なぜわが国は他国に攻められなくてはならないのか。その原因を突き止めることが大切ですね。
>日本は劣勢でも、鈴木さんは「よしやるぞという勇気が余計に出てきた。 >戦死した、手柄を立てたというようなニュースでいっぱいだから。 >いつの間にかそういう雰囲気の中に入ってしまう」
同調圧力がものすごかったのでしょうね。
> 年末に戦地行きが決まり、3日間の休暇が与えられた。 >「母親の手を握ってから行きたい」と思ったが、帰るには片道19時間。
秋田県の横手市は横須賀市からは遠いですからね。
>あきらめた。 >故郷へ向かう列車が通る上野駅15番線ホームに立ち敬礼した。 >「戦死するかもしれません。 >国のために戦死したのを親孝行と思ってください」
犬死はしたくありませんね。無駄な戦法の犠牲者にはなりたくないですね。 太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も早々と投降して、75000人以上の将兵の命を救った。 太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。 日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はなかったのか。 人命の尊重はどのように考えられていたのであろうか。
> 翌44年2月、インドネシア中部セレベス島マナドの海軍基地に配属された。 >ある日、港から25キロ先に敵の艦隊を発見し、鈴木さんにも攻撃命令が下った。 >魚雷2本を積んだ小さな魚雷艇に8人が乗り込んで出撃。 >敵艦まであと3キロの地点で発見され、機関銃で応戦された。 > 銃弾の雨の中、「突っ込め」「くたばれ」と叫んで近づいた。 >指揮官の命令で魚雷を発射し一目散に引き返した。 >「後ろを見たら、ものすごい火柱が上がって、音がしている。 >当たった、当たったと仲間の肩をたたきながら喜んで帰った」 >◆8隻のうち3隻が帰らず > しかし、この日攻撃に向かった8隻のうち、3隻は帰ってこなかった。 >24人ほどが戦死したことになる。 >それでも「悲しいとは特別思わなかった。
‘見事散りましょ国の為’ ですね。
>いつ自分たちもやられるかわからない。 >戦争っていうのはそういうものなんだね」。
そうですね。一億火の玉、総発狂ですね。
> その後、魚雷の補給が止まり、鈴木さんは配置換えで、潜水艦に乗り硫黄島や沖縄に武器や食料を輸送する任務を担った。 >終戦を迎えた時は、訓練科で同期だった300人中、219人が亡くなっていた。 > 翌年、実家に戻った。 >「背中を流してやる」と一緒に風呂に入った母親は、ぼんくら息子の背中にしがみついて泣いた。 >「くたばれ」と叫んだ話をすると、父親は「くたばれっていうのは、人間の言うことじゃないんだ。 >そういう心になってしまうのか」と涙をこぼした。 >「私は運良く帰ってきたからいいけど、何万人も亡くなった。 >戦争ほど惨めなものはないって、その頃分かったよな」
そうですね。人の命を政治の為の消耗品として使う国の方針ですからね。
>◆「戦争がぴんと来ないんじゃないかな その方が幸せ」 > 今、学校などで体験を話す機会もある。 >熱心に聞く子もいる一方、あくびや居眠りをしている子もいる。 >「年齢が違いすぎると、ぴんと来ないんじゃないかな。 >むしろその方が幸せだよな、戦争を知らないから」
アメリカ人のように戦争の嫌いな国民に戦争を仕掛けるのは大間違いですね。彼らは武器を山ほど積んで待っている。’治に居て乱を忘れず’ です。
> 確かに、戦後生まれの私にも当時の様子を想像するのは難しい。 >でも話を聞き、できる限り思いをはせ、伝えることはできる。 >私がこの仕事に就いたのは「地域の人の声を届けたい」からだ。 >少年の心をも変えてしまった戦争が再び起きないよう、体験者の声を伝える報道を続けたい。
日本人には責任感というものがない。 ‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下) これでは反省になりませんね。戦争には深い反省が必要です。失敗は特に勉強になりますね。
> ◇ > ロシアのウクライナ侵攻は1年を超えた。 >日本でも敵基地攻撃能力の保有や防衛予算の倍増が現実味を帯び、きな臭さが漂う。 >太平洋戦争終結から78年。 >戦争の悲惨さを忘れていないか。
日本人は敗戦から何も学習していないようですね。相変わらずの歌詠みばかりを続けている。原因論に到達しない。戦争を避ける術は得られていない。
>今年も20代の記者が、過ちを繰り返さないとの思いで戦争体験者を取材した。
各人は過ちを繰り返さない方法を公表すべきですね。
>あの戦争は遠い歴史になり、生の声を聞く機会も減りつつある。 >その貴重な時間を記録し、次の時代へとつなぐ。
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