>〈 批判するのでもなく、愚弄するのでもなく…内田樹がLGBT問題を“ゆるい合意”から始めるべきと考える“納得の理由” 〉から続く >「オルタナティブ・ファクト」(代替的事実)、「ポスト真実の政治」という言葉が世界を席巻する時代、私たちは自国の歴史とどう向き合うべきなのか? >新著『 街場の成熟論 』が話題の内田樹氏が語る、今こそ司馬遼太郎から得るべき学びとは。 >朝鮮人虐殺は公文書で確定されている歴史的事実 >――関東大震災から100年をむかえた本年、朝鮮人虐殺について松野官房長官が「政府内で事実関係を把握できる記録が見当たらない」と発表したことに衝撃を受けました。 >内田 官房長官の発言は、小池都知事の追悼文送付拒否と並んで、「オルタナティブ・ファクトの時代」を典型的に象徴するものだと思います。 > 小池都知事は虐殺犠牲者を悼む式典への追悼文を2017年以降送っていませんが、その理由を問われて、「何が明白な事実かについては、歴史家がひもとくものだ」「様々な見方がある」という言い方をして、歴史に向き合うことの政治責任を放棄していますが、これは公人には許されないことだと思います。
そうですね。
> 関東大震災での朝鮮人虐殺で「様々な見方」があるのは「正確な死者数」についてであって、朝鮮人虐殺の事実そのものの存否については「様々な見方」などありません。 >「朝鮮人虐殺があった」ということは、内閣府の専門調査会報告書や、当時の警察の記録も残っていて、公文書で確定されている歴史的事実です。 >これを「明白な事実ではない」とすることは公文書を「捏造」と言い立てるようなものです(そういうことをしてそのまま国会議員に居座っている人がいますが)。 (略) >「オルタナティブ・ファクト」は「ポストモダンのなれの果て」 >――政府の要職にある人が公然と「もう一つの事実だった」と言い放ったことに驚愕としました。 >内田[樹] 「オルタナティブ・ファクト」については、アメリカの文芸評論家ミチコ・カクタニが「ポストモダンのなれの果て」だと述べています。 >これは傾聴すべき意見だと思います。 > ポストモダニスムはキリスト教信仰やマルクス主義のような「大きな物語」を破棄しました。 >神羅万象を統べる摂理も、歴史を貫く鉄の法則性も存在しない。 >それは、西欧の人々が自分たちのローカルな「物語」を全人類に過剰適用したことに対する反省として出て来たものでした。 >おのれのものの見方の客観性を過大評価しないという知的節度は好ましいものです。 > でも、ポストモダニスムはその先まで行ってしまった。 >あらゆる「大きな物語」は失効した。 >それゆえ、誰にも「自分だけが客観的に世界を見ており、他の人たちは主観的妄想を見ている」と主張する権利はない。 >ここまでは正しい。 >でも、そこから「客観的現実などというものはどこにも存在しない。 >だから、客観的現実のことなど忘れて、それぞれが自分の好きな物語のうちに安んじていればいい」という「オルタナティブ・ファクト論」まで暴走すると、これは自民族中心主義を批判して始まったポストモダニスムが一周回って、自民族中心主義の全肯定に帰着したことになります。 > どうしてこんな倒錯が起きたかと言うと、それはいろいろな人がいろいろな仕方で世界を見ているが、その中には「かなり正確に見ている人」と「まるでお門違いな人」がいて、その差はしばしば決定的であるという「常識」がある時期から人類的規模で失われたからです。 > どんな社会理論も、いくつかの社会的事象はうまく説明できるけれど、すべての出来事は説明できない。 >でも、「かなり広い範囲で事象を説明できる仮説」と「ぜんぜん適用できない仮説」の間には歴然たる差がある。 >それを「どれも全世界の出来事すべてを説明できるわけではないから、同じようなものである」と論じることはできない。 >どのような自然科学の理論をもってしても、宇宙の起源がどうなっているか、宇宙の外側がどうなっているかを説明し切ることはできない。 >でも、「宇宙の起源も宇宙の終焉も、宇宙の外側も説明できない以上、物理学の現在の理論は、『宇宙は亀と象の上に乗っている』 (略) >原理主義のもたらす暴力をどうやって制御するか? >――非常に示唆に富んだ視点ですね。 >内田 政治というのは極限的には「こいつらは敵だ。 >敵は殺せ」というシンプルな命題に集約されます。 >この原理主義的な思考のせいで、これまでたくさんの人が苦痛を味わい、たくさんの人が殺されてきました。 >原理主義のもたらすこの暴力をどうやって制御するか、それが人類全体にとってつねに変わることのない最優先の倫理的課題だと僕は思っています。 > でも、それを「原理主義は間違っている。 >だから原理主義者を殺せ」という言明に縮減することはできません。 >それだと同じことの繰り返しですから。 >原理主義者は「間違っている」のではありません。 >人として「未熟」なのです。 >未熟な人間は処罰の対象ではありません。 >教育の対象です。
そうですね。マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。 ‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下) これを知った日本人は烈火のごとく怒った。日本における彼の人気はがた落ちに落ちた。彼は政治家ではない。彼は口を慎むべきであったか、それとも本当の事を話すべきであったのか。
>「もっと大人になれよ」といって導くしかない。 >もちろん、そんなことを言ったからといって、おいそれと「はい、悪うございました。 >これからがんばって大人になります」と殊勝に応じてくれるほど世の中は甘くありません。 > 一人ずつ常識をわきまえた大人の頭数を増やしてゆく以外に、原理主義者の蔓延を抑制する手立てはありません。 >迂遠ですけれど、とにかく「大人」を増やしてゆくこと。 >僕たちにできるのは、それだけです。
そうですね。
>原理主義者をゼロにすることはできませんし、そもそも願うべきことでもありません。 > 幼稚で、未熟で、集団を混乱に陥れる「困った人」をそこそこの数含んでいても、それでも簡単には壊れない、柔軟で寛容な社会を創り出すこと、それが喫緊の使命だと僕は思います。 >内田樹(うちだ・たつる) >1950年東京生まれ。 >思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授、凱風館館長。 >東京大学文学部仏文科卒業。 >東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。 >専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。 >『私家版・ユダヤ文化論』で小林秀雄賞、『日本辺境論』で新書大賞を受賞。 >他の著書に、『ためらいの倫理学』『レヴィナスと愛の現象学』『サル化する世界』『日本習合論』『コモンの再生』『コロナ後の世界』、編著に『人口減少社会の未来学』などがある。 >(内田 樹/ライフスタイル出版)
.
|