安井元康氏の意見
>トップランクの大学を出て、誰もが知る大手企業に就職し、現在は30代中頃です。 >妻と子供を養い、都内でマンションを購入し、車も保有しています。 >自分ではかなり頑張っているほう、そのなかでも上のほうだと思っています。 > ところが最近妻の友人のお宅などで、トップランクの大学出身でもなく、自営業やベンチャー企業、またはあまり聞かない会社の代表や幹部をしながら、自分達の生活レベルをはるかに凌駕するご家庭を間近で見る機会が増えており、正直困惑しています。 >自分は正解に向かって努力もしてきたし、一番の道を走っていたつもりですが、なんだか負けた気がしてしまい困惑しています。 >こういった方たちは、年齢は同年代でも何だか考え方や迫力、勢い、そして落ち着き方も全然レベルが違うのですが、なぜなのでしょう。
それは彼らが序列メンタリティを脱ぎ捨てたからでしょうね。序列思考はわが国においても通用しなくなっているのでしょう。
>いきなりこれまでの人生を否定するわけにもいかず、とはいえ妻や周りにも自分を認めてほしいという欲求もあり、どう対抗するのか、いや対抗しないべきなのか、思案しております。 >JY 会社員 >落ち着きのレベルが違うのはなぜか >まずそもそも論ですが、周りと比較して勝手にランク付けすることには人生においてまったく意味がありません。
序列形成には周りとの比較が欠かせませんね。わが国の常識は世界の非常識です。
>周りに認めてもらいたければ、まず自分が自分を認める必要があります。 >「なぜ落ち着き方のレベルなどが全然違うのか」とJYさんは問いますが、自分自身の人生を生きているという誇りが、自分に対する自信になり、その自信が周りに対する余裕として表れているのです。
経験は教育になりますね。経験は自信の基になっていますね。
>そういう人たちは、自分自身の幸せの定義を持っていて、他人の基準や信念に従うのではなく、自分の基準や信念に基づいて生きています。
そうですね。見栄と外聞だけでは落ち着いていられませんね。
>そして何よりも人生において大切なのは、他人に認めてもらうことではなく、自分が自分を認め、納得する人生を歩むことだ、という部分を理解しているからこそ生まれている余裕です。 >JYさんも、自分に対して正直な人生を送り、自分が満足する生き方をすればよいのです。 >結局のところ幸せな人生を歩めるか否かは、自分にとっての等身大の幸せとは何かを理解しており、そのうえで今の自分を好きになる勇気を持ち、自分自身を信じることができるか否かにかかっています。
人生において大切なのは人生哲学ですね。日本人は思考を停止しているから無哲学・能天気です。これが問題の根源でしょうね。
>それぞれが自分を信じ、自分が定義する幸せの定義に向かって生きていればよいのであり、他人との比較は本来必要のない行為なのです。
そうですね。しかし序列人間は比較無しでは成り立ちませんね。
>そもそも勝手に他人を見て「勝った負けた」と思うのは、他人の表面上の一部だけを見て、そして自分の勝手な基準で勝負を一方的に決めているだけです。 >本来そこに勝負はありませんし、勝ち負けも何もないのです。 >ではなぜそう思うのかというと、自分と自分の人生に自信がなく、自分の家庭や社会におけるポジションに確信が持てないからです。 >年収や車など表面的な部分で比較する >自信がないから、他人との比較において自分の立ち位置を探る、ということですね。
無哲学・能天気と序列メンタリティとは深い関係がありますね。哲学がないから序列に頼る。序列社会でしか生きて行けない人間になる。
>他人との比較で、他人のすべてを知ることはできませんから、先に述べたように、表面的でわかりやすい基準での比較にとどまるのです。
そうですね。やくざが ‘俺は〇〇組の者だ’ と名乗るようなものですね。
>想定される年収、住んでいる場所、乗っている車、持ち物なんかがそうですね。
日本人は見栄と外聞が大事ですね。
>そんな表面的なことだけで自分や他人の人生を理解し、ジャッジできるほど人生は単純ではありませんし、一部だけの比較ではまったく意味がありません。
日本人は国内だけの比較を好みますね。だから井の中の蛙のようになっています。
>自分を理解していないし、自分に満足していない。 >そもそも幸せや、満足の概念を自分自身の基準として有していないから、つねに不安であり、不安だからこそ他人の一部と比較することで理性を保とうとする、という流れです。 >不安だったらつねに自分自身をアップデートしていけばよいだけの話なのですが、その不安を勝手に他人に投影して「勝った負けた」と考えるのは、相手からすると迷惑以外の何物でもありません。
日本人が比較を事とするのは日本語文法の階称 (言葉遣い) に関係がありますね。日本人は常に ‘上と見るか下と見るか’ を判断している。
>相手からするとそれこそ「あなた誰ですか?」となるのですが、文字通りその「自分は誰か、何者なのか」に自信がないからそういう考えを抱いてしまうのです。
序下判断は日本人の判断の基準ですね。
>自分の人生に満足していて、自分なりの幸せを謳歌しているヒトは、他人と比べるということをしません。 >自分は自分、他人は他人だからです。
しかし我が国の学校はそのような教育をしていませんからね。絶えず比較して話をする。
>それぞれが各々の信じる人生、満足している人生を生きているわけですから、他人を見ても「自分の勝手基準」でラベル付けしないのです。 >そこには自分の基準や生き方があり、それとは異なる他人の基準や生き方があるだけです。 >異なる生き方や基準を持っているヒトたちを、同じ基準で比べても意味がありません。
そうですね。
>反対に、他人を見たときに思うのは、勝手に勝負を挑む独りよがりで無意味な思いではなく、異なる生き方や考え方に対する尊敬であり、自分の人生に生かせる学びを探る、というポジティブな目線です。 >先に述べたように、自分の人生を生きているという誇りが、周りに対する余裕となって表れるのです。 >地に足が着いた人生を生きているヒトが持つ余裕ですね。 >JYさんの「(周りのヒトと)全然レベルが違うのはなぜか」に対する答えとしては、自分の軸を持つ、自分自身のオリジナルの人生を生きる人は余裕があるから、ということになるのです。 >他人の人生の中に幸せは見いだせない >JYさんご自身もよい大学を出て、大企業に勤務し、ご家庭を築き、という素晴らしい人生を歩んでいるわけですから、本来他人と比べて自分が幸せだとか不幸だとか、勝った負けたをやっている必要はないハズです。
JYさんは序列社会の中で生きているのですから、そうは簡単にゆきませんね。
>ご自身の人生に誇りを持つべきです。
そうですね。言うは易く行うのは難しい。
>他人の人生の中に自分の幸せを見いだすことはできませんし、意味がありません。 >JYさんは今までの人生において非常に苦労し、現在を築き上げたのだと思います。 >それはそれで素晴らしいことなのです。 .それでも他人と比べてしまう、というのはもしかしたら、今選んだ道は「本当に自分がやりたかったこと」や「本当に自分が進みたかった道」ではなかったのかもしれません。 >仮にそうだとしても、過去を今さら変えることはできませんから、今自分ができる範囲で自分らしさを追求し、これからの人生において自分らしく生きることをテーマにすればよいのです。
そうですね。
>完璧ではないかもしれませんが、少なくともこの先の人生において、他人と比較して勝った負けたを勝手にラベル付けする人生よりは健全です。 >この先生きるうえで、自分なりの等身大の幸せの定義を見いだし、そこに向かってエネルギーを集約したほうがよいでしょう。 >比較は自分にとって負のエネルギーに >他人との比較は、多くの場合、他人や自分に対する負のエネルギーと化してしまいます。 >そうではなく、自分の信じる人生やゴールに向かってポジティブな生き方をしたほうがより健全でしょう。 >そのような考え方でJYさんが、今後の人生をよりポジティブで実りのあるものにされるであろうことを応援しております。
日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。
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