>文春オンライン >「氷河期世代」でもさすがの “高収入” …学歴エリート「東大」卒業生たちの “世代別月収” >本田由紀によるストーリー・ >3時間・ >〈 〈Youは何しに東大へ?〉「官僚」でも「商社」でもない…「東京大学」卒業生に人気の“仕事”とは 〉から続く > 日本の最高学府「東京大学」を卒業した学歴エリートたちは、どのくらいの月収を稼いでいるのか。 >卒業生を対象にした調査を見ると「さすがすぎる」実態が明らかになる。 >『 「東大卒」の研究 ——データからみる学歴エリート 』(本田由紀編著、久保京子、近藤千洋、中野円佳、九鬼成美著、筑摩書房)より、本田由紀氏が執筆した章から一部抜粋してお届けする。 >(全3回の3回目/ 1回目を読む / 2回目を読む ) >◆◆◆ > 今回の調査では、働いている人に対して、1カ月あたりの収入(税引前・諸手当込み)を10万円刻みの選択肢でたずねています。 > まず単純に回答分布を見ると、月収100万円以上の割合が3割を超えていることは注目されますが、それ以外は幅広く分布しています。 >各選択肢の幅の中央値を収入の近似値とみなして、まず世代別・性別に平均値を図表3-5に示しました。 > 最高年齢層でやや月収が低くなるのは、この世代においては正規雇用の割合がそれ以前の世代よりも下がることを反映していると思われます。 >そして注目されるのは、どの世代でも男性より女性の方が収入が低く、特に壮年期の2つの世代ではその差が大きくなっていることです。 > 先に見た役職と同様に、同じ東大出身者であったとしても、子育て期にあたる30代・40代において特に、男女間の収入格差が明確に発生していることは、日本社会のジェンダーギャップの根深さを物語っています。 >東大卒と「日本の平均月収」を比較すると…… > 東大卒業生の内部で見ると収入のジェンダー格差は明確ですが、それを東大卒業生以外、すなわち日本の大卒者全般の収入水準と比較してみた結果が図表3-6です。 > 上段の数値は東大卒業生調査から学部卒のみを取り出して月収の平均値を算出したもの、下段の数値は2023年度に厚生労働省が実施した賃金構造基本統計調査から、学歴が「大学卒」である者の月収の平均値を示したものです。 >賃金構造基本統計調査は年齢層が5歳刻みになっていますので、東大卒業生調査の4つの世代と年齢層がほぼ対応するように上下に配置しました。 > この表によれば、東大卒業生の収入水準は、日本の大卒者全体と比べてかなり高いということがわかります。 >もちろん、東大卒業生調査の回答者が高収入者に偏っているおそれがあることにはここでも注意が必要です。 >あくまで調査回答者に関してではありますが、特に30代・40代の壮年期については、同じ性別どうしで比較すると、東大卒業者が大卒者全般の倍近い収入水準になっている場合もあります(※)。 >(※)関連する研究として、朴澤泰男「大卒男性の年間収入と出身大学の所在地・設置者の関係について――就業地による違いに着目した考察」『NIER Discussion Paper Series』第4号、2017年、1~22ページを参照。 > また、東大卒女性は大卒男性全般と比較しても収入水準が上回っています。 >後述するように、こうした東大卒業生の収入には、勤務先企業規模や職種が反映されていると考えられます。 > 図表3-6の下段からは、日本の大卒者全般の収入におけるジェンダー格差を読み取ることができます。 >こうした格差は女性の経済的自立を阻害すると同時に、日本経済が女性のもつスキルや発想を賃金で報いる形で活かせていないという点でも大きな問題がありますので、全体的な変革が必要です。 > その中で、東大卒という学歴資本を手にしている女性は、大卒男性全般よりも高い収入水準を得ることができているという、希少な存在でもあると言えます。 >ただしそのことを、特権とみなして他の人々を見下すような考えになってしまうことは間違いです。
学歴とは学問にかこつけた人間序列の単なる言い換えにすぎませんね。日本の序列社会の身分制度が学歴という新しい序列に置き換えられただけの事ですね。日本人の序列からの解放にはなりませんので国際社会の人間にはなれませんね。未来の日本人にはふさわしくない慣行ですね。序列メンタリィティの根絶が必要ですね。
日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英文法にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々の考えの内容は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。世界の指導者になれるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
>(本田 由紀/Webオリジナル(外部転載))
日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく: 世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望が無い。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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