ニヒリズム |
>theLetter >深化する日本のニヒリズム(トッド『西洋の敗北』を読む1) >篠田英朗によるストーリー・ >1日・ >エマニュエル・トッド『西洋の敗北』における「ニヒリズム」の概念 >来週実施する企業人向けセミナーで、エマニュエル・トッドの『西洋の敗北』を扱うことになっている。 >これは私が設定した仕組みというよりは、主催者側が選定した仕組みに、私が入ってきたものだ。 >トッドについては雑駁な関心を持ってきたが、論じたことがなかったので、あらためてまとめ直すにはいい機会だと思って、関心を持ってお引き受けした。 >トッドは、人口動態の専門を生かして文明論的な議論を展開してきた人物で、巨視的視点で物事をとらえ直す際に、有益な現代の思想家だ。 >アメリカの衰退について考えている際に呼んだ『帝国以後』は刺激的だったし、ロシアのウクライナ全面侵攻にガザ危機が重なり合った時期の一昨年に公刊された『西洋の敗北』は、現代世界で起こっている事象の整理に、非常に役立つ書だ。 >私の拙著『地政学理論で読む多極化する世界』の内容にも影響を与えたと思う。 >トッドの議論の要点をあらためてまとめながら、せっかくなので、この『The Letter』でも、それを書き留めていこうかと思いついた。 >意外なところからかもしれないが、まず「ニヒリズム」について書いてみたい。 >あまり強調されないが、トッドは「ニヒリズム」の概念を、重要視して用いている。 >現在の日本の状況を見ていると、その「ニヒリズム」の指摘が、あまりに痛切だ。 >選挙戦中の日本の状況 >今、日本では、衆議院選挙の直前の時期になっている。 >高市首相の政策には、これまで目立った効果が見られない。 >それだけでなく、選挙後の見通しについても非常に悲観的な意見が多いように思われる。 >それにもかかわらず、高市自民党の支持率が高い。 >少なくとも高市政権が続くであろうことは、ほぼ確実な情勢だ。 >高市首相が、徹底したイメージ戦略をとっていることも、大きな争点だ。 >『日曜討論』を欠席しながら街頭演説で手を振り回している、Youtube動画が短時間で1億回以上という異様な再生回数を記録している、などの話題に事欠かない。 >政策は、議論されない。 >「行き過ぎた緊縮志向から脱する」高市首相のスローガンは、意味不明だと評判が悪い。 >高市政権の発足後、大幅な円安が進行中で、市場も不安視していることが示されている。 >「世界の真ん中で咲き誇る日本外交」についても、トランプ大統領の横で飛び跳ねてみたり、中国の過剰な反応を引き出す台湾有事発言を行ってみたりと、いわばパフォーマンスの部分は派手だが、果たして何らかの実質的利益のある外交目標を追求しているのかと言えば、疑問だ。
そうですね。
>高市首相がこだわる防衛費の大幅拡充についても、何を目指してそれを行うのか、という点についての説明は不十分で、手段の目的化の印象は否めない。
日本人には手段の目的化が多いですね。日本文化には、現実 (事実) があって非現実 (考え・哲学) がない。だから手段は目的化せざるを得ないですね。
>中身が信じられていないのに、支持が高いのは、いわば「空虚主義」としての「ニヒリズム」が顕在化した状況だ。
そうですね。’日本は必ず勝つ’ といったようなものですね。他力本願・神頼みですね。
>トッドによれば、欧米諸国に「ニヒリズム」が蔓延しているが、日本も例外ではないということだろう。 >「ニヒリズム」の概念 >「ニヒリズム」は、「神は死んだ」という言葉で象徴される哲学を遺した19世紀末のドイツのフリードリッヒ・ニーチェの議論が有名だ。 >ニーチェは、虚無主義的な思想が、西洋社会を覆いつくすことを予見する洞察を展開し、その後の世界の思想動向に巨大な影響を与えた。 >ニーチェ哲学における「ニヒリズム」の思想を、ここで要約することは不可能だが、あえて端的に言えば、「神が死んだ」後の世界で、自律的な価値観を失い、自己実現の目的もなく、虚無的な快楽主義に浸るだけの人間たちの特徴が、「ニヒリズム」だ。 >ニーチェは、「ニヒリズム」に陥った人間の姿を「最後の人間」という概念で描写した。 >この「最後の人間」の概念を根本命題にして、ニーチェの百年後の時代に、国際関係を論じたのが、フランシス・フクヤマだ。 >彼の『歴史の終わりと最後の人間(The End of History and the Last Man)』(1992年)は、自由民主主義が勝利した後の(冷戦終焉後の)世界において、「ニヒリズム」が蔓延して、「最後の人間」たちがあふれかえる様子を想像した。 >フクヤマの議論をめぐっては、「自由民主主義の勝利」は、本当に正しい洞察だったのか、という点にばかり注目が集まるが、フクヤマ本人は、「最後の人間」の「ニヒリズム」を克服できるかどうかが、冷戦終焉後の世界の大きな課題になる、ということを強調しようとしていた。 >フクヤマの本の公刊から35年ほどがたった。 >その今、結論を言えば、フクヤマの懸念通り、「ニヒリズム」が蔓延し、「最後の人間」が支配する世界が、自由民主主義を標榜する諸国で顕著になった。
そうですね。
>アメリカでも、欧州でも、日本でも、そうだろう。 >文化的背景の違いを反映した相違はあっても、「最後の人間」の「ニヒリズム」の状況は共通していると言える。
日本人は昔からニヒルですね。 ‘神も仏もなかりけり’ですね。哲学がない。スコラ哲学にもインド哲学にも染まらない。
>トッドの議論における「ニヒリズム」 >トッドは、「宗教ゼロ状態」という独自の概念規定で、「ニヒリズム」を定義する。 >ただそれは、現代の事情を織り込むための概念設定の工夫だ。 >決して「神の死」のニーチェから「歴史の終焉」のフクヤマをへて、展開してきている「ニヒリズム」の問題を覆すものではない。 >トッドは、現代の「ニヒリズム」に二つの次元があることを指摘する。 >一つは「物理的次元」で、「物や人間を破壊しようとする欲動」が人間を突き動かしている状態を指している。 >戦争が蔓延する現代世界の状況を表現したものだが、そこで特徴的なのは、本来は何らかの価値を実現するための手段として正当化されるはずの戦争が、それ自体として目的化している状態だ。 >手段ではなく、目的化した戦争が、続く状況が、「ニヒリズム」の「物理的次元」だ。
力は正義ですね。Might is right. .
>もはや実現可能な目的が見失われているにもかかわらず継続されるロシア・ウクライナ戦争や、テロ対策といったお題目から完全に乖離した軍事行動が続けられるガザ危機だけでなく、防衛費の増額それ自体が目的化した日本の選挙のキャンペーン術なども、「ニヒリズム」の「物理的次元」の現象だと言えるだろう。 >トッドの「ニヒリズム」に第二の次元は、「概念的次元」である。「真理という概念そのものを破壊し、世界を合理的に捉えることを禁じる傾向」は、「価値観の不在から生じる非道徳主義」と定義される意味での「ニヒリズム」から生まれる。>つまり、「ニヒリズム」が蔓延した世界では、真理が価値を失い、合理的判断が価値を失っている。 >その背景には、基準となる価値観の喪失という「非道徳主義」の問題が存在する。 >もはや政策の実現可能性などは、重視されない。 >立ち位置や振る舞いの印象論的イメージだけで、支配する権力者が選出される。 >「ニヒリズム」の「概念的次元」と結びついた現象だ。 >「ポスト・トゥルース」などと描写される「ポピュリスト」的な姿勢を特徴とする政治家や、合理性を欠いた政策をイメージ印象論で広めてしまう政治家たちが、自由民主主義の制度によって守られた選挙を通じて、支配を確立してしまう世界。 >それが、トッドが、「敗北」に向かって進む「西洋」諸国が陥った、「ニヒリズム」が蔓延する現代世界と描写するものだ。 >「最後の人間」の「ニヒリズム」の世界としての現代日本 >トッド自身は、日本の読者に気を遣って、日本は「西洋」と袂を分かつことも可能であるかのようなことを語っている。
日本は西洋と一緒にはなりませんね。何しろ、無哲学・能天気ですから。
>だが基本的には、欧米諸国とともに、日本も、「西洋の敗北」への道を進んでいるのだろう。
それは共認圧力による結果ですね。
>選挙戦の様子を見ていると、どうしてもそのように感じざるを得ない。
そうですね。無哲学・能天気の有様が見えている。日本人は哲学があって挫折するのではない。
日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。実況放送・現状報告に終始する。現実の内容ばかりである。 わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。非現実の内容 (視点・論点) がない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。リーズン (理性・理由・適当) の価値は教養により高められる。我々日本人は他人の受け売りを学ぶばかりで、自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。社会に有能な指導者が現れない。 [木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人] 英米流の高等教育機関において自己の個人的な見解を論文にて明らかにすれば学位 (博士号など) が得られる。ぜひ獲得すべき知性の保証です。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
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