治者は、’下におれ、下におれ’ と号令を掛けて民に卑屈な心を育てあげる。階称 (言葉づかい) の国には、治者崇拝が育ち固定化されやすい。これが昔ながら日本である。
無哲学・能天気の民に議論はできない。理由はない。ただ、’不敬罪’だの ‘非国民’ などと言いつつ、反抗する下々を掟破りとして黙らせて恣意のままに操る。これが戦前の子供じみた社会であった。
山本七平は、自著 <ある以上体験者の偏見> の中で、反省の押し売りに関する疑問を、下の段落のように述べています。
、、、、、私が常に不思議に思うことは、戦前の「恥を知れ、反省しろ」であれ、新井宝雄氏の「反省が見られない」であれ、本多勝一氏の「恥としなければならない」であれ、軍隊の「キサマラ、反省がタリン」であれ、「恥を知れ、処決せよ」であれ、たえずこの言葉を口にするこの人たち自身が「自らを律しそれを基準にして生きている主義」は、一体全体、何という主義だったのだろうかという疑問である。(引用終り)
消去法を使って相手の内容にたくさんの御託を並べて、自分自身の未来構想を述べた気になっている。この勘違いに気づく者は極めて少ない。
未来社会の建設が大切である。我々は何処に行くのかを示さなくてはならない。これは時制のある英語を使った時の考え方である。
日本語には未来時制がないのであるから、日本人には未来に関する文章内容は作成できない。建設的な議論はない。
文章がなければ、筋が通らない。文章にならない歌詠みのようなものになる。結局、何を言っているのかわからない。
これは日本人のむなしさ。情けなさ。
日本人には、この世があって、あの世がない。ナウな感じがする。
それで、あの世の非現実の内容は、この世の真っ赤なウソと解釈される運命にある。
真理 (非現実) に関する真面目な話はできない。漫画・アニメ (この世の真っ赤なウソ) で時をやり過ごしている。
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