あらかたの人は原発廃止で一致している。
だが、原発を直ちに止めることは技術的にできない。このことでも一致している。
だが、それでも日本人は心を一つにすることは難しい。
遠未来の内容に、民の心を合わせることは難しい。
日本人には未来の内容は信じられない。
未来の内容は未来時制の文章で表現されなくてはならない。が、日本語には、未来時制はない。
現在時制 (あるいは、無時制) で未来 (非現実) のことを語れば、その内容は、この世のウソになる。無い物を、さもあるように言うことになる。
非現実の内容は現実的でない。だから、その内容を聞いても実感がわかない。信じられない。
現実的でないことを試してみても失敗する。そのようなバカなことはやらない。考えない。
非現実のことがバカなことになるのは、矛盾を排除することが出来ないからである。
矛盾を排除することが出来ないのは、未来時制の文章がないからである。文章があれば、矛盾は指摘・排除できる。
‘小異を捨てて、大同につく’ という言葉がある。
小異というのは、この世のこと (つまり技術論) である。
大同というのは、我々の行き着く先・つまり遠未来の内容 (哲学) である。
遠未来の内容 (大同) が信じられないと民の団結は難しい。小異が捨てられない。無哲学・能天気でいては、’同じて和せぬ’ 小人となる。
意思のあるところに、方法はある。
意思は未来時制の内容で、日本語には、未来時制はない。だから、日本人には意思がない。
意思のない人たちには方法がなく、方法を持たない人たちが議論をすれば、建設的なものにはならない。
大同に力点を置かない人たちには、つかみどころがない。不毛の議論を重ねて時間を浪費する。政治は迷走する。
日本語には時制がないが、英語にはある。高等教育は、真っ当な意思を表現する訓練でなくてはならない。
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