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2014年12月03日(水) 

日本語には、時制が無い。だから、日本人は、過去・現在・未来の世界 (内容の区画) をわけて考えることができない。いろいろな世界を考えることができないから、それらの比較もできない。歴史観が無い。歴史認識に難渋して優れた歴史書が著わせない。
歴史を歴史として考えることができない例を、イザヤ・ベンダサンは自著 <日本教について> の中で以下のように説明しています。

たとえば「ロッド空港事件」の岡本公三が属していた赤軍派です。彼らの主なメンバーは、銃砲店でライフル銃を強奪して、ある有名な別荘地の山荘に立てこもったのですが、その理由は毛沢東が「銃口から政権が生まれる」と言ったので、その通りに実行したと言われております。これは彼らに「なるほど、歴史のある時期には、『銃口から政権が生まれる』といえる時代もあったのだ」と感じる感覚が全く欠如していることを示しています。そこでこの言葉を正しいとすることは、すぐさま銃をもって山荘にこもることに直結してしまうわけです。(引用終り)

世界観も無い。自分の住みたい世界の内容を考えることもできない。恣意 (私意・わがまま・身勝手) の自由な世界を考えても、辻褄を合わせることはできないから、考えとして表現できない。
理想が無いので、その理想の内容をこの地上にぜひ実現してやろうという使命感が無い。努力に粘りが無く、淡泊である。
自分の理想を基準にして物事を判断することができないから、他から基準をとってくる。他人の評判を気にしなくてはならない。日和見主義者になる。
評判を先取りをする形式の道徳教育は、日和見主義者を愚直な人間に変える有効な手段である。本人の守るべき基準を他から吹き込むところが肝心なところである。自分で信じるか、信じないかの問題ではない。12歳の子供の教育である。だから、マッカーサも日本人に希望を託したのである。
日本人の秩序を維持するために、序列を利用する。和を保つために、序列社会を理想しなければならない。愚直な序列人間の世の中は、変わらなければ天下泰平である。同じところをぐるりぐるりと回っていて年中行事を繰り返す。酸いも甘いも知っている人間は多くなっても、次の時代を切り開く発想は出て来ない。黒船の出現は迷惑千万である。
日本語には、言葉づかい (階称)がある。階称は文法ではないけれども、礼儀正しい日本人には必要である。文法書でないところに、その用法は出ている。我々の礼儀は、序列差法である。階称に合わせて、正しい態度を示す。自分自身の個人判断ではなく世俗的序列に従って '上と見るか、下と見るか' の判断を態度に示す。'修道院・大学に籠ってはならない' とする、この世俗 (現実)的であるところが、民度の低さを示している。
現実の内容を他所で再現すれば、それは模倣である。パクリ文化圏の人々の励みである。
非現実の内容をこの世で実現すれば、それは創造である。英米の高等教育の目指すところである。
日本語は、時制が無いので、現実の内容ばかりを表わしている。だから、創造活動の余地がない。
そこに英米の文化を持ち込むと文明開化の混乱がおこる。知識ばかりを詰め込んだ頭でっかちの人間ばかりができて、曲学阿世に走る。
非現実の内容は、過去時制・現在時制・未来時制で表わされる。
英語の現在時制の文章は、時制のない日本語と同じ文体であるから、非現実の内容は日本語でも表わされるはずであるが、時制の使い方を覚えないと、非現実の内容は把握できない。
'世の中、万事、不平等' は現実であるが、'人は生まれながらにして平等に作られている' は非現実である。
そこで、日本人は後者に対して、'いかなる根拠に基づいて、そのような内容を主張できるのか' と問う。
時制がなければ、脳裏に非現実の空白もなく、それを埋める哲学もない。その努力目標もない。昔の通リ '実況放送・現状報告' の内容では、無哲学・能天気である。
英語を習得し、発想の転換を図らなければ、アングロ・サクソンと協力して、対等な立場に立って未来社会を建設することは難しい。






閲覧数468 カテゴリ日記 コメント0 投稿日時2014/12/03 14:18
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