2016年04月09日(土) 

 

>世界人権宣言においては「高等教育は、能力に応じ、すべての者にひとしく開放されていなければならない(26条1)」と定められている。

 

文章が無くては、意味もない。矛盾があっても、それを指摘できない。

言葉が、いかようにも解釈できるような状態にあっては、個人は他人に対して説得力を持つことはない。特亜三国 (日本・中国・韓国) の言葉には時制が無く、その言語は、実況放送・現状報告のための言葉となっている。話す内容が現実ばかりであるから、子供の話と同じである。

‘嘘も百回繰り返せば真実となる’ と言われているが、話の内容は過去・現在・未来の非現実である。考え (非現実) の内容を表す構文がないので、特亜三国人の話には筋が通らない。話の矛盾を指摘することも困難である。だから、嘘を精力的に繰り返し、自分好みの真実を作ろうと励んでいる。このような風習が、北東アジアの不安定要因になっている。

 

現実の内容は、過不足なく成り立っている。もしもその説明に過不足があれば、その矛盾が指摘されて事実関係調べが行われ、ここで決着する。

非現実の内容は、過不足なく成り立たせることが難しい。それは、日本語にそのための構文が無いからである。文章が無ければ、発言に矛盾があっても指摘できない。話の内容から矛盾を取り除くことができないので、正しい考えというもの自体が考えられない。そこで、出鱈目が横行する。

 

時制のある文章の作り方を習い、自己の非現実の内容を表現できるようになれば、自分固有の考えを示すことができる。このようにして、自己の哲学を得ることができる。これが、英米の高等教育である。さらなる大人のための英語教育である。

日本人には哲学 (非現実) が無い。だから、無哲学・能天気の人になっている。我々は移行すべき未来社会を発想できない。我々は、永遠にどこにも行かない。死んでも草葉の陰から、じっとこちらの方を眺めている。お変わりなければ、天下泰平の世の中ということであり、我々の望むところである。ここでは行くべき未来社会の建設は求められていない。だから、建設的な意見は見当たらない。仏教徒とは言いながら、前世・現世・来世の内容を考える輪廻の苦しみに煩わされることもなく、ただ ‘世の中は、、、’ の現実的な発想に終始している。

 

政治家にも、政治哲学が無いから、政治音痴になっている。世界観 (非現実) がないので、自分たちが行き着く先の内容を示すことができない。国会議員は小異 (現実) にとらわれて、離合集散を繰り返している。大同 (非現実) がなくて小異があるので、小異を捨てる理由はない。小異が大異のごとくに見えているので、政治音痴も治らない。四年間みっちり勉強させる英米の大学よりも、遊んで暮らす日本の大学の方に日本人学生の人気が集まっている。これが、日米価値観の相違というものか。

 

非現実の内容を実社会で実現できれば、それは創造である。

現実の内容を実社会で再現すれば、それは模倣である。

特亜三国人は、模倣に長けていて、創造が苦手である。

模倣の競争は参加者が多く、とかく過酷なものになりがちである。

創造の競争は、我が道を行く。個性を伸ばすことができる。

英米の大学の上には大学院の建設も可能になる。学士を大学院に入学させて職業教育を施せば、さらに高度な職業人ができる。

このようなわけで、我々日本人にとっても、時制ある英語の勉強は欠かすことができない。

 

 

 

.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数648 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2016/04/09 11:02
公開範囲外部公開
コメント(0)
  • 次項有コメントを送信
    閉じる
    名前 E-Mail
    URL:
■プロフィール
シンちゃんさん
[一言]
明るい未来社会を築こう
■RSSフィード
RSS 1.0 RSS 2.0 Atom 1.0
■このアルバムのURL
https://e-jan.kakegawa-net.jp/blog/blog.php?key=826684