2019年05月21日(火) 

 

 

 

(略)

>渡辺京二氏の前掲書『逝きし世の面影』に何人もの西洋人の日本人観が紹介されています。三つ選んで、以下に引用します。

>■バード(Isabella Lucy Bird 1831-1904 旅行家・探検家『日本奥地紀行』、当時外国人が足を踏み入れることのなかった東北地方を馬で縦断した英国女性)

> 「(日本人の)最高の信条はむき出しの物質主義であり、目標は物質的利益であって、改革し破壊し建設し、キリスト教文明の果実はいただくが、それを稔らせた木は拒否する」

 

そうですね。キリスト教文明の木を日本人は拒否しますね。

日本語は、写生画の言語であり、むき出しの物質主義でありますね。それ以外にない。

 

>■ オールコック(Rutherford Alcock 1809-1897 初代駐日英国公使 主著『大君の都』)

> 「(日本人は)崇高な原理やロマンチックな幻想や活動的な没我的信仰によってすこしも啓発されない、本質的に下劣」であって、「かれらの知的かつ道徳的な業績は、過去3世紀にわたって西洋の文明国において達成されたものとくらべてみるならば、非常に低い位置におかなければならない」

 

日本語では、非現実 (考え) の内容が表現できない。だから、崇高な原理・ロマンチックな幻想・活動的な没我的信仰、などは、日本語の脳裏に収まる余地がない。日本人には、英米人の高等教育に相当する内容が欠けている。

英文法には、時制 (tense) というものがある。時制のある文章は、独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) を表すことができる。非現実の世界の枠組みが白紙の状態であれば、それを自分なりの内容で埋めなくてはならない。

だから、英米人は、’考える人’ になる。その考えの結果が自分自身の世界観になる。その世界観を基にして現実を批判すれば、批判精神の持ち主になる。

日本語には時制がないので、日本人には自分自身の世界観を持てない。だから、批判精神もない。

 

>■ ブスケ( Georges Hilaire Bousquet 1846-1937 1872明治5年から76年まで司法省顧問として在日した仏人)

> 彼によれば、日本の社会にはすぐれてキリスト教的な要素である精神主義、「内面的で超人的な理想、彼岸への憧れおよび絶対的な美と幸福へのあの秘かな衝動」が欠けており、おなじく芸術にも「霊感・高尚な憧れ・絶対への躍動」が欠けているのである。

>そのことと、日本語が「本質的に写実主義的であり、抽象的な言葉や一般的で形而上的な観念についてまったく貧困である」ことは、密接な関係があるとブスケは考えていた。

 

日本語は、本質的に写実的ですね。つまり、印欧語のような時制 (tense) というものを持っていない。だから、非現実 (考え) の内容を表現できない。

日本語では、目の前の内容しか表現できない。非現実 (考え) の内容は、想定外になっている。だから、無哲学・能天気である。

現実の内容は、頭の外にある。それは、見ることができる。見ればわかる。正解は、一つであることがわかる。考える必要は無い。楽ちんである。日の下に、新しきものなし。退屈男・退屈女が出てくる。

非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話の内容を理解するためには、その文章を理解しなくてはならない。そのためには、文法を考えなくてはならない。これは、頭脳労働になる。しんどい。

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示している。考えの内容は、人さまざまである。だから、正解は、一つではない。多数ある。日本人には、これが理解しがたい。だから、個人主義が理解できない。

 

(略)

 

 

 

 

 


閲覧数279 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/05/21 04:04
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