2020年05月03日(日) 

 

 

>ただその高度さを隠すまでに人為的なものであるため、表面上は『自己意識』が希薄なように見られるだけである。

 

日本人には、それしかないですね。これは、文法上の問題ということになりましょう。

 

> 日本人の無為自然というのはどこまでも人為的なものであり、人の力によって無為自然を作り上げている。

 

そうですね。意思の無い人間の人為ですね。意思の無いアニマルのようなものか。

 

>そしてそれがさまざまな面で対人関係に生かされたり、芸術的に表現されたりしている。

 

無意思の行為は、非言語の世界 (音楽・絵画・造形美術・その他) には無理なく通用しますね。

 

>この『自己意識』はヨーロッパのような『神の視点』から自己を見下ろす自己意識とは違うが、水平的に場の雰囲気を読む『自己意識』として日本人に常に求められているものであり、金谷武洋氏はこの視点を『虫の視点』といっている。

 

‘あるべき姿’ の内容にはならずして、’気分・雰囲気’ の問題になりますね。

 

>このような『虫の視点』から場の雰囲気を捉える日本人特有の能力が、だんだんと失われつつある。

 

我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の重要性を十分に認識する必要がありますね。そうすれば、日本語の良さと英語の良さを共に理解することが可能です。

 

> 今行われている『個性化教育』は日本人の自己意識をヨーロッパ的な『神の視点』へと引き上げようにしているが、そのような文化的基盤のない日本で『神の視点』はなかなか育たないばかりか、従来日本人のもっていた『虫の視点』の良さまでもが壊れつつあるように思える。

 

そうですね。無知のなせる業です。共倒れの危険があります。Win-win の関係を築きましょう。

 

>ヨーロッパの『オーケストラ』の演奏は、一人の指揮者を立てそれに従って全員が演奏するという上からの『神の視点』に近いものだが、 日本の伝統的な『雅楽』の演奏は、全員が横並びで一人の指揮者を立てることもなく、互いが場の雰囲気を読みとりながら、それでいて全体の調和をとるという『虫の視点』に近いものである。

 

指揮者には自己がある。雅楽には調和がある。’共倒れ’  ‘同士討ち’ はやめましょう。

 

> 今の日本の教育をとりまく状況は、日本の伝統的な『雅楽』奏者が、突然『オーケストラ』の演奏のなかに引きづり込まれて、従来培ってきた雅楽の演奏方法が台なしになってしまっているのと似ている。

 

そうですね。無知のなせる業ですね。思慮の深い人間になることが必要ですね。

 

> ***以上引用終わり*** 

 

 

 

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閲覧数360 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2020/05/03 16:15
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