>一方、学校の勉強がきらいで成績もよくなかったけれど、大人になってから社会で大活躍したり、大成功したりしている人も、世の中にはたくさんいます。 >大人になっていきなり才能が開花したのでしょうか。 >いいえ、おそらくそういう人は、子ども時代から、テストの点数とか学校の成績とかでは測れない種類の頭のよさをもっていたんです。
学校は序列作りの為のデータさえ集めれば、それで目的は達成されるのです。どんなにつまらない競争でも順位が得られれば、それで目的は達成されたことになります。その努力の結果がわが国の教育の低迷となって表れています。
>新しいものを生み出す発想力とか、人を喜ばせたりやる気にさせたりするすぐれたコミュニケーション力とか、そういうものは学校のテストではわかりません。 >こういう人たちの発揮する頭のよさというのは、言ってみれば「社会のなかで、いかによく生きるか」というものなんです。 >勉強ができる、成績がいいということは、ある一面ではたしかに「頭がいい」のです。>だけど、きみたちが思っているほど絶対的なものじゃないんです。
絶対的な人間の序列などできませんね。 ‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)
(略) >齋藤孝氏は「新しい学校教育」についてこう述べている。 >『学校教育においても、学力指導のポイントが変わってきています。 >これまでの学力は、「知識をつけ、それを覚え、その知識に基づいた問題に答えられる」力を重視したものでした。 >しかし、「思考力・判断力・表現力」や個々の「学習意欲」を伸ばしていくことを重視する方向へと、シフトしてきたんです。 >自分で考えて、自分の意見をちゃんともって人と対話できること。 >問題を発見して、自分で探求して、自分で研究してみる姿勢をもつこと。 >主体的・対話的で深い学び。>これがキャッチフレーズです。
非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。 自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。これは、子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。 意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。現実の内容だけであれば、'現実' 対 '現実' の上下判断になり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の場合はこれである。非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。 わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。それで、個人主義が何であるかを理解することが難しい。本人にも相手にも何を考えているのかわからない。だから、誰からも信頼されない。世界観に基づく協力者が得られないので社会に貢献する度合いが限られる。
>それに伴い、学力を測る基準も、変わってきています。 >知識が身についているかというのは、ペーパーテストでわかりやすいものです。 >しかし、「自分で考える」ことが軸になっている「新しい学力」は、従来のようなペーパーテストで測るのはむずかしいんですね。 >それで、小論文を書くとか、自己PR文を書くとか、面接試験をするとか、そういうところで見る試験がどんどん増えているのです。 (4/4へ続く)
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