>やりたい子がたくさんいるけれどもサポートがないというのでなく、大勢に逆らって手を挙げるような若者が少ないのが現状です」(渡邊さん)
それが現実ですね。カレル・ヴァン・ウォルフレン氏 (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<日本語文庫新版への序文>の中で下記の段落のように述べています。 、、、、、日本の政治を語るうえで欠かせない表現の一つである「仕方がない」という言葉を放逐することに、本書がいささかなりとも役立てばと願っている。本書は、本当の意味での政治参加をさせまいとして日本に広く作用する力について詳述している。この力こそは、個々人の、市民になろうとする決意と、有効に機能する民主主義を守ろうという意志を弱めるものである。日本に作用するこの力は、独裁政権があってそこからくり出されてくるのではない。それは日本の社会環境のあらゆる場所から発現する。、、、、、この力こそが、多くの日本人が身をおく境遇に対して唯一、適当な対応は「仕方がない」とうけいれることだと思わせるのである。(引用終わり)
>渡邊さんらが探し求める人材は、希少であるという意味でもまさに「ダイヤモンドの原石」なのだ。
そうですね。その原石を多数産出できる土地柄が必要になりますね。
>行動する人の背中を押す「寄付を文化に」 >ユースベンチャラー >8カ国から集まった若いチェンジメーカーたちと、日本のユースベンチャラーたちが交歓した。 >提供:アショカ・ジャパン >そんな困難なミッションに挑戦し続けるアショカ・ジャパンだが、2020年夏から活動を加速させている。過去8年間で107組を育成してきたユースベンチャー事業で、2020年7月からの3年間でさらに100組の育成を目指すという。>「今回、新型コロナウイルスの感染拡大による混乱のなか、日本にはリーダーシップとエンパシー(共感力)を兼ね備えた人材が欠けていることを痛感し、大きな危機感を抱きました。
そうですね。我が国には有能な政治指導者が見当たりませんね。 日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。 意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。 ‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り) ‘兎角、この世は無責任’ という事か。 自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。高踏派の人は孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外にいる。
>予測不能な状況に対応できる人材の育成を急がなければならないと考えました」(渡邊さん)
同感です。 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。 私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
.
|