>優秀な学生を指導する際には、自分で考えさせることが重要です。
そうですね。思考停止の状態から学生を解放することが大切ですね。
>教員の仕事は、知的で魅力的な環境を提供すること。 >そして、締めるところと、自由にさせるところのバランスをとらねばなりません。 >特に後者は重要です。
日本人には、自由を理解することは難しいですね。 自由とは、意思の自由の事である。だが、日本人には意思がない。そして、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。恣意の自由は何処の国でも認められていない。恣意の自由は’自由のはき違え’ となる。だから、昔からの ’不自由を常と思えば不足なし’ のままでいる。時代の閉塞感に襲われます。
>米国の大学は、授業は厳しいのですが、夏休みなど休暇は長くとります。 >その間にボランティアなど自由に活動します。
ボランティアとは志願者の事ですね。意思の無い日本人が志願者に成れるのは、恣意の力によるものでしょうね。日本人は恣意を鍛えて意地・根性・大和魂としますね。リーズン(理性・理由・適当) がないからこの種の行動は危険なことですね。英語のボランティアとは別次元のものですね。
>多数のノーベル賞学者を輩出した京都大学の学風は自由です。
ノーベル賞受賞者の数で自由の学風を絶対的に証明するのは危険なことですね。 山本七平は、<ある異常体験者の偏見>の中で、日本人の絶対化について述べています。「日本軍が勝ったとなればこれを絶対化し、ナチスがフランスを制圧したとなればこれを絶対化し、スターリンがベルリンを落としたとなればこれを絶対化し、マッカーサーが日本軍を破ったとなればこれを絶対化し、毛沢東が大陸を制圧したとなればこれを絶対化し、林彪が権力闘争に勝ったとなれば『毛語録』を絶対化し、、、、、、等々々。常に『勝った者、または勝ったと見なされたもの』を絶対化し続けてきた―――と言う点で、まことに一貫しているといえる。」と書いています。
>開成高校や灘高校などの有名進学校も自由です。>詰め込み教育はしません。
日本人は無哲学・能天気であって思考を停止していますから、詰め込み教育をしないと知識が増えませんね。詰め込み教育を受けた人は、蓄えた知識を使って受け売り専門の人なりますね。ありきたりのことを沢山しゃべる人になっています。ありきたりの事であれば、聴衆は安心して聞いていられますね。 イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。 評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
>ところが、昨今の医学部教育は正反対です。>講義と実習を詰め込み、夏休みや冬休みは短期間です。
実習があると学生は忙しくなりますね。現実直視が必要ですからね。
>多くの大学が授業の出席をとり、小テストを繰り返します。>酷いところになると、医師国家試験対策用の授業や試験を行います。
出席は何処の医育機関でも単位習得の要件になっていますね。テストは学生を安心させるためのものでしょうね。学生の心配事は国家試験ですから。
>医師国家試験用の予備校に通う学生までいます。
国家試験に失敗した卒業生は、そういう事になりますね。もちろん予備校通学は強制ではありませんね。
>これでは、教養は身につかず、自分で考えられません。
教養は教養学部でみっちりと勉強すればよいでしょう。その後に医育機関に入学したらよいでしょう。
>医師国家試験には合格するかもしれませんが、まともな大人に育たないでしょう。
そうですね。医育機関には初めからまともな大人を入学させる必要がありますね。
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