2021年07月13日(火) 

 

>日本人らしさを方向づけた母系家族の由来と様相 | メイン | >2021年07月08日

>西洋と東洋(又は日本)、単に比較だけでは前に進まない。 

 

そうですね。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

>対立ではなく共に認める事実を提示することが本物の可能性になる。  

 

そうですね。それは良い提案ですね。      

 

>今回も実現塾からの新しい認識をお伝えします。 >このブログの今後の追求の方向性にも通じる重要なメッセージです。 

 

‘過ちては改むるに憚ることなかれ’ ですね。

 

>―――――――――――――――――――――――――――――――

>長らく本源性を有してきた日本人(縄文人)の価値観と戦争を発祥し、私権社会を作り上げてきた西洋人の価値観は180度違っている。  

 

‘東は東、西は西’ ですね。   

 

>西洋人の過去5000年で作り上げた体質やその帰結としての社会の総括は今後100年は続くだろう。>私権社会やその帰結としての個人主義や偏った西洋科学、環境破壊から学校教育を通じた左脳偏重の心の破壊はやがて明るみに出て、その総括が議論されていく。  

 

日本には個人主義がない。だから、日本人社会は個人の優れた考えに期待していませんね。これは大変な損失です。      

 

> しかし、今やるべきことは東洋と西洋の違いを上げて東洋優位、西洋下位を示すことだろうか?

 

‘上と見るか・下と見るか’ は、日本人の得意な判断ですね。有益な判断でしょうかね。     

日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。   

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。これは序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的な意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。    

 

>その方法でこれまで考えてきたが、そのやり方は正しくなかったのかもしれない。 > にほんブログ村 歴史ブログへ

>例えば子どもが真っ当に育つ為にはまず十分なスキンシップと仲間との外遊びが大事。>この事実を西洋はNOと言うだろうか。>東洋も西洋も関係なくそうだと納得するのではないか?   

 

そうでしょうね。    

 

>いや、むしろ西洋の方がその事実に目を向け子どもには進んで外遊びをさせるような動きが出ている。>また、これだけ環境破壊が明白になった現代、自然との共生、田舎暮らしの必要性、自然から学ぶ教育を打ち立てて反対する西洋人が居るだろうか?  

 

日本人は現実直視が苦手ですね。だから、手つかずの自然を楽しむよりも、整えられた自然を好む。日本人はキャンプ・探検よりも日本庭園・岩風呂の方に注意を向ける。後者の方が高級感があるのかな。   

 

>むしろ西欧の一部からその必要性がいち早く国家方針に取り入れられ、進んで実践しようとしていないか。

 

SDGs (Sustainable Development Goals: 持続可能な開発目標) ですね。   

 

>さらに行き詰まっている西洋科学、まったく解明できていない人体の謎、脳科学、さらに心の世界、さらに活力論まで、可能性を探っているのは日本より西洋の方が進んでいるきらいもある。  

 

科学は哲学である。すなわち人間の考えである。自然は変わらない。変わるのは人間の考えの内容である。 だから、科学は限りなく進歩する。   

 

> 実現塾で提起されたのはこういう考え方だ。>現代社会全体が行き詰まっている現状、自然の摂理や生命原理に基づいた事実は、もはや誰も反論しない。>むしろ西洋、東洋にこだわらず”事実は誰もが認める”という方向に舵を切り替えたほうがよいのではないか?  

 

大和風の忖度 (推察)・歌詠みでは話にならないですね。 

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の頭の中にある非現実の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

現実と非現実 (考え) は区別して語らなければならない。そうでなければ、現実の内容は白昼夢と区別できない。これはキチガイ沙汰に違いない。だから、日本人は自分の持つ非現実 (考え) を語らない。これは子供と同じ状態である。日本人の考えの内容は哲学にはならずして、空想・妄想の類になる。だからわが国では英米式の高等教育が成り立たない。お陰様で、わが国は '漫画・アニメ' の大国になった。  

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解は人間だけが持つ言語の世界である。 ‘なれ合い’ とか‘なあなあ主義’ とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませることである。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので話にならない。かくして、日本人の対話は不可能になる。   

 

>対立はダメ、対立は本物ではないということだ。

 

‘正・反・合’ とゆくのでしょうかね。   

 

>事実は誰もがすっと受け入れ、実践していく中にある。 >日本人だけでなく西洋人含めて本来の自然の摂理に依拠した社会に戻していく。 >そういう考え方が実現の思考ではないか。

 

非現実の内容を現実の世界で実現出来れば、それは人間が創造力を発揮したことになりますね。   

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数462 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/07/13 11:09
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