2022年05月15日(日) 

 

>現代ビジネス   >低学歴国日本の本音――大学進学より大企業就職の方がトクなのか? 知識や能力を評価しないこの国の給与   > 野口 悠紀雄 2022/05/15 06:00

 (略)

>日本では、大学卒で小企業で働く人よりも、高校卒で大企業で働く人のほうが、生涯所得が848万円多くなる。 >日本の給与体系が個人の能力を評価するものでないために、このようなことが生じる。   

 

‘寄らば大樹の下’ ですね。個人主義が浸透しない日本の社会ですね。        

 

>「学歴が高いほど収入が多い」というが「学歴と収入は関連しており、高学歴ほど、生涯の給与が多い」と言われる。 >賃金統計のデータを見ると、確かにそうした傾向がある。

>図1は、賃金構造基本統計調査のデータを用いて、男性の一般労働者についての学歴別・年齢別の給与(きまって支給する現金給与額。月額)を示したものだ。  >図1 学歴別・年齢別賃金(その1:10人以上の企業、単位:1000円) >© 現代ビジネス >令和3年賃金構造基本統計調査のデータより筆者作成   

 

>初任給では大きな差はないが、その後、高校卒の給与はあまり伸びないのに対して、大学卒の給与は年齢とともに増加し、50~54歳では、大学卒が52.9万円と、高校卒34.2万円の1.5倍になる。 >図1のデータから年収の数字を出し、これらを単純に合計したものを「生涯収入」と呼ぶと、大学卒は2億6639万円となり、高校卒2億0014万円より約6500万円多い。倍率では1.33倍だ。>「だから、経済的な観点からみて、大学に進学すべきだ。大学に進学しない人は、このような計算を理解していない」と言われる。  

>確かに、学歴は、収入を増やするための手段として、努力によって獲得できるほぼ唯一のものだから、以上の論理によれば、大学に進学するのが合理的だ。 >しかし、この論理はあまりに単純すぎる。 >事態はそれほど簡単ではない。

 

そうですね。   

 

>上記の数字を鵜呑みにすると、日本の高等教育制度が抱えている深刻な問題を覆い隠してしまうことになる。>そして、改革の必要性が見えなくなる。 >日本の大学進学率は、国際的に見てかなり低い。 >日本は低学歴国だ。   

 

皮肉なものですね。受験地獄の存在するわが国は教育立国であると思っている人が多いにも関わらずですね。   

 

>こうなる理由は、「以上のような計算を理解していない人が多いからだ」ということではない。> 経済的観点から見て、大学進学が合理的かどうかに疑問があるのだ。>大学進学より大企業就職のほうが生涯給与が多くなる   >図1に示したデータだけから、「大学進学が生涯給与を増やす」という結論は得られない。 >なぜなら、日本では、給与は企業規模によって大きく異なるからだ。   

 

そうですね。我が国は序列社会で、我が国人の給与は序列規模により大きく異なりますからね。   

 

>賃金構造基本統計調査によれば、従業員1000人以上の企業の平均給与月額は37.6万円であり、従業員10~99人の企業の平均給与29.89万円の1.26倍だ。>これは、先に見た大学卒と高校卒の生涯賃金の比率とほぼ同じだ。>したがって、「小企業で働く大学卒よりも、大企業で働く高校卒のほうが給与が高い」ということがあり得るわけだ。>このことは、データによって確かめられる。   

 

>図2には、従業員数1000人以上の企業の高校卒と、従業員10~99人の企業の大学卒の給与(きまって支給する現金給与額。月額)を示す。  >図2 学歴別・年齢別賃金(その2:大企業と小企業、単位:1000円) >© 現代ビジネス  >令和3年賃金構造基本統計調査のデータより筆者作成   

 

>59歳までのどの年齢でも前者の給与が高い。>逆転できるのは、60歳になってからだ。 >その結果、大卒で小企業で働く人の生涯給与2億3110万円より、高卒で大企業で働く人の生涯給与2億3958万円の方が、848万円ほど高くなる。 >したがって、「学歴より、大企業に就職することのほうが重要だ」ということになる。   

 

そうですね。‘寄らば大樹の陰’ の効果の表れですね。   

 

>「日本では、大企業に就職することが、大学に進学するのと同じ経済的価値を持つ」と言ってもよい。 >大学進学にかかった費用を取り戻せない   >問題はこれだけではない。  

>当然のことだが、大学進学には費用がかかる。  >学費だけではない。 >大学在学中に働くのは難しいから、4年分の所得を放棄することになる。 >また、大学受験のために私立校に通ったり、塾に通ったりすれば、かなりの費用がかかる。 >さらに、日本の給与体系は年功序列的なので、大学卒であるために給料が高くなるといっても、それが実現するのは、大学卒業後かなり長い時間が経った後のことになる。 >こうしたことを考えると、先に述べた企業規模による給与の差を考慮にいれなくとも、大学進学が有利な投資といえるかどうかに疑問が生じる。   

 

そうですね。   

 

>経済的に余裕がある家庭の子女だけが、大学に進学できることになる。>企業は大学入学というレッテルだけを評価している   >以上で述べたことは、日本社会が高等教育の意義をどのように評価しているかと深い関係がある。   

 

そうですね。日本人の価値観に関係がありますね。      

 

>そもそも、学歴が高いほど給与が高くなるのはなぜだろうか?  >それは、大学で教育を受ければ、高い能力が獲得でき、それを職務の上で発揮できるからだ。  

 

そうですね。それは欧米の話でしょうね。わが国では、決してそのようにはなっていないです。   

現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。日本人は正解が一つしかない問題を作る。だから、現実の内容はご唱和の内容になる。

非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。文にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy. 個人的な考えの違いは議論の対象になる。日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止して人は、つかみどころのない人間である。議論の余地がない。        

 

イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。

評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)   

 

大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)    

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。

、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)     

日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。

日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。

 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。

 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)           

 

>しかし、日本の企業は、大学卒をそのような意味では評価していない。   

 

日本人は思考を停止している。だから、日本人は議論が出来ない。従って、個人の哲学は評価されませんね。   

 

>大学卒というレッテルだけを重視し、「そのレッテルがある人に管理職になる機会を与える」という意味で評価している場合が多い。   

 

そうですね。レッテル主義ですね。日本の文化の特徴は、’形式 (レッテル) があって内容がない’ ことです。   

 

>つまり、学歴とは、管理職への入場券なのだ。 >そして、人々の能力や仕事の成果に合った賃金を払っているのではなく、管理職という地位についた人に自動的に高い賃金を払っている。 >専門知識や専門的能力を評価し、それへの対価として高い給与を支払っているわけではない。   

 

そうですね。レッテル主義ですね。伝統的な身分・格式の社会ですね。   

 

>その証拠に、図1で分かるように、初任給では大学卒と高校卒にあまり大きな差はない。 >また、20歳代でも、あまり大きな差はない。 >そして、時間が経つほど学歴による差が開く。 >もし専門的知識や能力を評価しているのなら、初任給から大きな差があるはずだ。   

 

そうですね。   

 

>そして、勤務年数が増えればほぼ自動的に給与が増えるというようなことはないはずだ。   

 

能力の評価ではなくて年功序列の効果によるものですね。  

 

>アメリカの場合、初任給で学歴など能力によってかなりの差があり、その後は、年齢とともに自動的に給与が増えるということはない。 >これは能力や成果を評価しているからだ。

 

そうですね。彼らは職能給ですからね。

わが国は縦社会 (序列社会) であるから、企業から企業へと渡り歩いて (横歩きして) 昇進する道が見当たりませんね。じっとして動かず上の席の空くのを待っています。これが義理堅く礼儀正しい日本人道です。義理とは序列関係から生じる義務の事です。            

 

>日本の大学は社会の要請に応えていない  >責任は、企業だけにあるのではない。 >大学の責任も大きい。  

 

それは我が国の企業も大学も序列社会に変わりないからですね。  

 

>大学は、社会の要請に合わせて学生の能力を高めるような教育を行なっているとは言えない。   

 

そうですね。日本人は無哲学・能天気ですからね。欧米流の高等教育は日本人の身に付きませんね。   

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

>大学の最も重要な役割は、入学試験において選別を行なうことだと言っても過言ではない。 >そして、入学できさえすれば、よほどのことがない限り卒業できる。 >だから、正確に言うと、レッテルは「大学卒」ではなく、「大学入学」というレッテルなのだ。   

 

そうですね。わが国では在学の中身には意味がないですね。      

 

>しかも、最近では、入学試験における選別さえ十分に行われていない可能性がある。 >総合型選抜(旧AO入試)という名の下で、入学の基準が緩くなっている可能性がある。 

>大学進学に意味がある社会を作れ   >私は、大学に進学したい人がすべて進学できるような社会が望ましいと考えている。  

 

そうですね。私もそう考えていますね。哲学は人生の役に立ちますからね。大切な学問ですね。教養ですね。          

 

>そして、大学教育を受けたいと考えるすべての日本人が、その希望を実現できる社会を築くべきだと考えている。   

 

そうですね。個人主義を日本人社会に浸透させて各人が自己実現に向かわせるように政府は努力すべきですね。   

 

>そのためには、社会が大学教育の役割を正当に評価し、それを給与で評価してくれなければならない。  

 

無哲学・能天気の民には正当な評価は難しいですね。   

 

>また、大学がそうした社会の要請に応えるような教育をしなければならない。   

 

そうですね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

 我が国の ‘かな漢字’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。だから表記法の改革も進まない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。          

為せば成る。為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり。 (上杉鷹山)   

 

>このような観点から見て、日本の大学の現在の状況は、大きな問題を抱えている。

 

そうですね。日本の大学には大きな問題が在りますね。これは日本人そのものの問題ですね。         

 

 

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閲覧数150 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/05/15 14:05
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