2022年06月21日(火) 

 

 

>AERA dot.   >日本低迷の元凶「思考停止社会」を変える、日本人の強靭な強みとは   > 2022/06/21 07:00   (略)  >「どの部署で仕事をするか、勤務地をどこにするか」は、場合によっては自分の人生を決定づけてしまうような重大事項です。 >しかし日本では、それらが自分の意向とは無関係に他の人の判断で決まることが当たり前のように行われてきました。 >そのような思考停止した日本企業の経営姿勢にこそ、日本低迷の原因が潜んでいると、『日本的「勤勉」のワナ』の著者で、約30年にわたって日本企業の変革の現場に身を置いてきた柴田昌治さんは言います。 >その真意を本書から一部を抜粋・加筆して解説します。   

>*  *  *   

>■予定調和や前例踏襲が生む「枠内思考」  > 多くの日本の会社が安定優先の経営姿勢を長年続けてきたことが、安定重視の社会規範を私たちの意識の中に蔓延させています。 >その結果、「予定調和」であるとか「前例踏襲」といった思考姿勢が多くの伝統ある会社では当たり前の規範となっているのが現状です。    

そうですね。私たち日本人は何処の新しい世界にも行きませんね。   

> では具体的に、「予定調和」や「前例踏襲」で組織が運営されると、どういう状況で思考停止は生まれてしまうのでしょうか。 >「予定調和」というのは、そもそも最初から確定している結論に向かって、そこから逆算した道筋をただ辿っていく仕事の進め方です。 >そこにいる人間は無意識のうちに予定された結果を念頭に置き、つまり、予定された結果を前提に業務を処理します。  > そのような状態を、私は「結論が『動かせない前提』という枠となっている」と表現しています。 >この場合、業務は枠の範囲(頭の中にある想定)で処理すれば済むので、自分の頭でものごとの本質を深く考え抜くといった必要は基本的にありません。 >「前例踏襲」も同じです。 

予定調和はあまり面白い仕事ではなさそうですね。   

>前例という過去の経験を枠として、それをなぞってことを進めればいいのですから、そこでも新しい発想や頭を使って考えることは必要ないのです。 > 不動の前提を枠とし、その枠の範囲で業務を処理するのは効率的で、気持ちの上でも、頭を使わないという意味でも、楽なのです。 >この楽で効率的な思考を「枠内思考」と呼んでいます。 

前例踏襲・枠内思考は面白くないですね。   

>■多くの日本の会社が抱える本質的で致命的な問題点  > 意識して努力をしない限り、楽なほうを選んでしまうのが人間という生き物です。 >気がつけば、非常に多くの無自覚な「規範」が枠となっているのが現実です。 > 無自覚な「規範」というのを具体的にあげてみると、先ほどから出てきている予定調和の考え方、前例、上司の意向、お客様の意向、社内の作法、法規、予算、部門の壁などいくらでもあります。 > 無理をして面倒なことを考えるより、それで済むなら何も考えずに動くことを選択してしまいやすいのが、私たち人間です。 >上司やまわりの空気から、考えないことを望まれていると感じるなら、なおさらそうしてしまう人が多くなるのは当然だということです。 > この楽で無自覚な枠内思考という思考停止状態は、平成以降、多くの日本の会社がいつの間にかなじんでしまった本質的で致命的な問題点です。 

そうですね。思考停止の状態は日本社会の本質的で致命的な問題点ですね。      

> つまり、変化をめざすことが不可避である状況になっているにもかかわらず、無自覚の中にこうした多くの規範が枠をつくり上げ、思考停止を呼び起こしてしまっているのです。 >こういう状況に気づけば、思考停止を排除できなくなっている事態がありとあらゆるところで起きている、ということがわかります。 > そして、これこそが日本低迷の発生源と言ってもよいのです。 

そうですね。我が国には人手不足はあっても、頭脳不足の話は聞いたことがないですね。 

>■無自覚な思考停止を放置してはいけない  > 日本、そして、日本の会社の将来にとって問題なのは、結局のところ、思考停止という現象がまさに日常茶飯な現象となってしまっている、ということに集約されます。   

そうですね。 無哲学で能天気な人はノンポリで政治音痴になっていますね。だから未来社会の建設に役立ちませんね。          

> 規律や作法や思惑が枠となって社員の思考を縛り、制限された行動が強く出る環境の中で、考える力は育つはずがないのです。  

そうですね。我が国のような序列社会においては、忖度ばかりが発達していますね。   

> 枠内思考という思考停止は、身近で無自覚に根深く存在しているからこそ、最も大きなダメージを与えている、ということでもあるのです。 

思考(考え)は日本人に意味をなさない。思考の内容は非現実であるが、非現実の内容は日本語の文章になりません。それは日本語の文法に時制というものがないからです。ですから、考えの内容は日本人の脳裏では想定外になっています。だから、思考停止は無自覚です。     

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。 (引用終り)     

> 日本人が持つこの無自覚な思考停止という性向を放置したままだと、経営の中枢(本社部門など)も今まで通りの発想で「混乱回避」を上位に置いた仕事を続けることでしょう。 >そのようなことでは、前例踏襲で動き続ける組織が減るわけがないのです。 > これを変えようと思うなら、経営陣一人ひとりが本当に本気でチームとなり、組織風土改革も織り込んだ方針の大転換をすることが必須です。 >今のままだと、どうしても深く掘り下げる思考が働かないままになってしまう、ということです。   

しかし、日本人には意思がない。どうなることやら。     

日本人には意思 (will) がない。つまり、無心である。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。おとなしい。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。だから戦時中は、玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。困った時には '他力本願・神頼み' になる。生きる力 (vitality) が不足している。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

どうやら '指示待ち人間' ができあがったようです。この筋道で成功すると、後追いの専門家になりますね。後追いの人は指導者としては適当でない。 

>■日本人が持つ、人間関係における強靭な強み  > そのような問題意識もあり、私はこれまで、企業改革のサポートを自らの社会的な使命と定め、取り組んできました。 > 企業改革の推進力を強化するためには、改革をしたいという思いを持つ企業人同士の連携を高めることがどうしても必要になります。 > そして、連携を高めるためには、互いの心理的な安心感をつくり上げるステップを重視しなくてはなりません。 > 日本の場合、この心理的安心感をつくり上げるのは他の先進国と比べると、実のところそれほど難しくはないのです。 > というのも、一定の環境さえ用意すれば、お互いに自分に似た「何か」を共有しようする感覚を多くの人が持っている、という人間関係における強靭な強みが日本人にはあるからです。 >この感覚を私は「日本人が持つ共感力」と名付けています。 > 先輩後輩意識や互いが持つ甘えの関係がプラスに働くシチュエーションや環境を用意するのは、やり方さえ間違わなければ、それほど難しくはないのです。   

日本人の人間関係は一族郎党の構成員の自己序列に対する帰属意識によるものですね。  

 日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。      

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

 日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在を確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、この種の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。   

>■日本人の生き方に潜む大きな問題   > 企業改革の最初のステップでは、「ジブンガタリ」という、一人ひとりが自分のことを自らの言葉でじっくりと語る時間を大切にしています。 >単なる経歴ではなく、自分が経てきた人生の中で感じたことや考えたことなど、自身の生きざまを互いに語り合ってもらうのです。  > この時間での唯一の譲ることのできないルールは、互いに相手の話に耳を傾けて、その人が本当に言いたいことをじっくりと聴く、ということだけです。 > こうした時間を、話しやすい雰囲気を醸成してから持つことができれば、参加者はかなりオープンに自分のことを話します。 > そんな機会を非常に多く体験してきた私ですが、実は、たくさんの人のこうした話を聴く中で、日本人の生き方には非常に大きな問題が潜んでいる、と感じていることがあるのです。  > それは、企業人の多く、特に中枢に位置する人ほど、自分の人生の中で非常に重要な意味を持つはずの自身の人生の転機を、自分の意志とはまったく関係なく、会社の意志、もしくはそのときの人事を担当した他人の意志で決めていることです。   

日本人には意思が無いので、意思の内容に考えを集中することが難しいです。  

> 日本の人事や採用の仕組みがそうなっているので、これは日本企業としてはごく当たり前のことです。  >ですから、多くの人は特に意識していないのですが、よく考えてみると人生の在り方にとっては非常に重要な意味を持っているのです。   

そうですね。 >「どの部署で仕事をするか、勤務地をどこにするか」は、場合によっては自分の人生を決定づけてしまうような重大な事項であるにもかかわらず、自分の意向とは無関係に他の人の判断で決まるのが、日本という国の基本的な仕組みだということです。   

そうですね。意思のない人には責任という観念もなく、罪の意識も薄いですね。      

> 日本企業が成り立っている人事の仕組みそのものがそうなっているのだから、一人ひとりにとっては仕方がないことではあるのです。   

だから、わが国には個人主義が浸透しません。  

> ただし、企業では当たり前のこととはいえ、日本のサラリーマン人生はそういうことの連続なのだ、ということの持つ潜在的な意味の大きさを思わずにはいられません。   

同感ですね。人材の無駄使いですね。     

> これは日本ではごく普通のことですから、会社勤めをしている人の多くがそうやっているわけで、取り立てて問題がそこにあるとは思っていません。  >問題自体は薄々感じてはいても、仕方のないこと、受け入れざるをえないことだと思っているわけです。 >■順調な会社員人生を送ってきた人に欠けている経験   > 確かに、受け入れざるをえないというのが現実でしょう。  >そこに問題があるというのなら、日本での会社人生はそもそも成り立たないからです。 > しかし、私がこうしたことにあらためて問題を感じるようになったのは、そこに生じている「違い」に非常に大きな意味があることがわかってきたからです。  > その「違い」とは何か、といえば、自分の人生を会社の意志で決めてきた人と、自分の意志で決めてきた人の、思考の在り方の「違い」です。  

そうですね。自分の意思で決めた人には個人主義 (個人の考えを尊重すること)の良さがありますね。   

> 多くの人の「ジブンガタリ」を聴いていると、少数ではあるのですが、自分の意志で自分の人生をつくり上げてきた、という人にも出会います。  > それはどういう人なのかといえば、一つは自分の意志でリスクの伴う転職を決行してきた人です。 >自分の人生をリスクの伴う自らの決断で決めてきた、という経験は、順調に過ごしているサラリーマンでは味わうことのない経験です。  

そうですね。自ら決断した人には自分の人生に自信がありますね。   

> それが上手くいったかどうか、本人が自覚しているかどうかは別にして、非常に重要な痕跡をその人の思考姿勢の中に残していることが見えてくるのです。  > つまり、普通の会社員なら、多くの場合には向き合う機会のない、「働くとはそもそも自分の人生にとって何を意味することなのだろう」とか、「この会社で働くことが自分の人生にもたらす意味は何だろう」とか、簡単には答えの出ない問いと向き合わざるをえない経験をいつの間にかしている可能性がある、ということです。   

そうですね。彼らは自己の哲学を作り上げていますね。各人に哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.    

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治に必要である。日本人の場合は、無哲学・能天気にためにノンポリ・政治音痴になっている。これでは冴えた政治は行われない。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)       

>■今、日本企業が最も必要としている力   > 転職のような「人生の荒波にもまれる経験」はそのほかにもいろいろあります。  >もう一つの例でいうと、海外の子会社などで、重要な意思決定を自分の責任でせざるをえないような立場を経験してきた人もそうです。   > 会社にもよりますが、日本にいるときとは違い、言葉も人種も商習慣も異なる厳しい環境の中で、本社からの余計な干渉が少ない代わりに、サポートもあまり期待できない状態を経験している、ということです。  > この人たちも、自分の意志で転職を決断してきた人と同じように、過去の経験から答えを簡単には導き出すことのできない、正解のない「問い」と向き合わざるをえない経験を知らず知らずのうちにしてきているのです。   

そうですね。 私の知人にもJICA (国際協力機構) に参加して海外で自信をつけた人もいます。    

> さらに付け加えれば、がんなどの重い病気や大けがで何カ月もの入院を余儀なくされてきた人、もしくは会社人生で降格、左遷といった大きな挫折を味わったことがある人なども、そうです。 

学校の外では答えのない問いに直面しますね。    

> これらの人たちに共通するのは、順調な人生なら特に見直す必要もないような「問い」──つまり、自分の人生とはそもそも何だったのか、何のために人は生きているのか、働くとはそもそも何なのだろうか、といった本質的な「問い」──と向き合う時間を持ってきた、もしくは、持たざるをえなかった、ということです。   

各人に哲学は必要ですね。 そのために英米流の高等教育は必要です。        

> こうした「問い」は、私たち日本人にとってあまり慣れてはいない、決まった一つの正解が用意されているわけではない「問い」です。 

これは大人になるための勉強ですね。我々日本人は12歳ではいられない。      

> しかも、考えることなしには、思考力なしには向き合うことができない「問い」でもあるのです。 > つまり、これらの人たちは、本人が意識しているかどうかは別にして、今、日本企業が最も必要としている「考える力」を駆使せざるをえないような経験をしてきたということです。  

‘艱難汝を玉にす’ ですね。   

>私が言う「違い」の持つ意味とは、まさにこのことです。 >■考える力を身につけるために欠かせないステップ  > このことからわかるのは、考える力を身につけるためには、正解が用意されていない「問い」と本気で向き合うというステップがどうしても必要とされるということなのです。   

そうですね。 初等・中等教育では得られない教育効果ですね。     

> ただ、残念なことに優秀であったはずの企業人の多くは、こうした経験をまったくしないままに会社人生を送っていることに何の疑問も持っていないのが現実です。   

そうですね。我が国の英米流高等教育は台無しですね。高等教育では自分で答えを見つける訓練をします。ですから、大発見のチャンスもあります。英米流の高等教育の成り立たない我が国は無哲学・能天気の社会になっています。   

> それというのも、特に「考える」という力を持っていなくとも、「どうやるか」さえ考えていれば、従来通りの日常業務なら回していくことはどうにかこうにか可能であるため、自分が思考停止に陥っていることに気づきにくいからです。 

そうですね。 我が国は処世術(損得勘定)と実学(技術)が発達していますからね。現実の中では困りませんね。      

>「どうやるか」だけでさばくような思考姿勢であっても、予定調和や前例踏襲での対応を求められるだけであれば、特に問題は出てこないのです。   

そうですね。人生は順調という事ですかね。   

> この「どうやるか」だけでさばく思考姿勢こそが、私が問題にしている無自覚の「枠内思考」というものです。   

そうですね。日本人の文化には形式だけがあって、内容がありませんからね。   

> つまり、何らかのルールや約束事、または前例などを制約条件として、それを枠と捉えることで、枠を前提として枠の範囲で「どうやるか」だけを選択肢の中から選ぶ、という思考の仕方に無自覚になっている、ということです。   

そうですね。日本人には思考の条件となる現実の枠が存在しますからね。    

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数172 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/06/21 23:45
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