>GHQだけではなかった「漢字廃止論」 いま、漢字を使い続ける意味を考える >グローバル教育考 2019.09.28 >本連載「グローバル教育考」では、海外と日本をつなぐ教育の動きを追っているが、今回、日本における教育の基本となっている「日本語」についても考えてみたい。>終戦直後、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は漢字を廃止し、ローマ字にしようとした。 >日本語、中でも漢字の扱いについては、国語学者のみならず、知識人を巻き込んだ、戦後の大きな課題だった。 >「漢字廃止論」や「漢字制限論」の歴史を振り返りつつ、日本語を思考に使う意味を考えてみる。 >(朝日新聞編集委員・山脇岳志=写真も、文中敬称略)
興味のある課題ですね。
>京都・祇園にある八坂神社の周辺は、着物姿の女性が目立つ。 >派手な柄の着物はレンタルショップで借りる人が多く、中国からの観光客が特に多いのだという。 >その八坂神社のそばに「漢字ミュージアム」(漢検漢字博物館・図書館)がある。 >年200万人以上が受験する「漢検」の日本漢字能力検定協会が、2016年に開設した。 >2階建ての館内を歩くと、漢字やひらがな、カタカナがどうやって使われるように至ったのか、その歴史がすっと頭に入ってくる。 >見学して特に興味深かったのは、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)が、漢字を廃止しようとした経緯である。
漢字は漢人 (中国人) の為に作られた文字ですから、中国人社会以外ところで使うといろいろと不都合が起こりますね。その不都合にもめげずに日本人は漢字を使っている。 中国は中原 (ちゅうげん) に鹿を逐 (お) う伝統的な覇者の国である。だから、覇者の物語 '三国志' は、中国人の愛読書となっている。覇者は周辺諸国に覇権を打ち立てようとして傍若無人のふるまいをし、多大な迷惑をかけている。これは皇帝の時代も国家主席の時代も漢民族のメンタリティが同じであるから変わらない。漢民族は、自分たちの考えを示すために漢字を作った。しかし、彼らは外国人の考えを示すための漢字は作らなかった。だから、外国人に対して自己の内容を発信はできるが、外国人からの内容を受信することは難しい。独断専行に陥りやすい。印欧語族のインド哲学を経文 (漢文) に表すことが至難の業であることがわかる。経文など漢文の書物をいくら読んでも外国人の考えは出てこない。だから、中華思想を堅持し自己中心的にならざるを得ない。周辺諸国を中国化することに専心してやまない。中国人が外国人の影響を受けて発想の転換 (paradigm shift) をすることは期待薄である。 ・・・・・ 中華 (ちゅうか) [外国との交渉が少なかった時代に] 自国を、世界の中心にある、一番優れた国とみなしたこと。[狭義では、漢民族のそれを指し、またその呼称としても用いられる] 東夷 (とうい) [東方の野蛮人の意] 昔、中国から見た東方諸国の称。[広義では朝鮮・沖縄を含み、狭義では日本を指した] 南蛮 (なんばん) [南方の野蛮人の意] 昔、中国で、インドシナなど南海地方の諸民族の称。 西戎 (せいじゅう) [西方の野蛮人の意] 昔、中国で、チベット族やトルコ族など西方の異民族の称。北狄 (ほくてき) [北方の野蛮人の意] 昔、中国で、匈奴 (きょうど)・韃靼 (だったん) などの遊牧民族の称。
>GHQの要請で米国から派遣された「アメリカ教育使節団」(大学の学長、教授、教育行政官ら27人)は、日本語をローマ字表記にして、漢字習得にかける勉強時間を外国語や数学の学習にあてるべきだと考えた。>1946年に「アメリカ教育使節団報告書」を発表している。 >(邦訳は講談社学術文庫に所収) >報告書には、「歴史的事実、教育、言語分析の観点からみて、本使節団としては、いずれ漢字は一般的書き言葉としては全廃され、音標文字システムが採用されるべきであると信じる」とある。
そうですね。我々が頼りにしている知識の源 (原書) は英語 (音標文字) で書かれていますからね。木に竹を継いだようなシステムにしておくのは良くないですね。
>漢字ミュージアム内の展示。 >漢字やひらがな、カタカナの成り立ちが年代順にわかるようになっている >ではなぜ今も漢字は使われ続けているのか。 >京都大学名誉教授で、「漢字ミュージアム」内にオフィスがある漢字文化研究所長の阿辻哲次は、漢字が廃止されなかった背景をこう語る。 >「GHQは、漢字のせいもあって日本人が戦争に走ったと考えたんですね。
彼等には疑心暗鬼もあったのでしょうね。
>英語のアルファベットのような『表音文字』のほうが、漢字のような『表意文字』より進んでいるとも考えていました」 >教育使節団は、難しい漢字のせいで日本人の識字率が低いことを示そうと、全国調査を命じる。 >調査は、1948年8月に、全国から抽出された約17000人を対象に行われた。 >1問1点として90点満点で採点され、平均点は、100点満点に換算して78点だった。 >正解がゼロ(識字できない人)は2%程度にすぎなかった。 >これは教育使節団の想定と全く異なっていたこともあり、漢字廃止には至らなかった。
部外者の見方は見事に見当違いでしたね。
>「漢字廃止論」だった伊藤忠商事社長、伊藤忠兵衛 >もっとも、GHQを待たずとも、漢字の廃止論は、戦前からあった。 >有名なのは、明治期の「郵便制度の父」前島密である。 >前島は、江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜に仮名文字での教育の普及を建白した。 >明治初期には、初代の文部大臣を務めた森有礼が英語を公用語とするよう提唱、終戦直後には作家の志賀直哉がフランス語を公用語にせよと主張した。
漢字はわが国でも問題視されていたのですね。朝鮮民族は1446年に漢字をハングルに切り替えましたからね。しかしハングル表記の朝鮮語では外国人には容易に読めませんね。
(略) >フランス語は極論だとしても、戦後の国語審議会で、伊藤忠兵衛(2代目 1886年~1973年)ら、「かな文字派」=「表音派」が大きな力を持った時期があった。 >伊藤忠兵衛は、伊藤忠商事と丸紅の礎を築いた経済人である。 >俳句をたしなむ文化人であったが、横書きのカタカナを使うことを推進した「カナモジカイ」の設立に携わるなど、戦前から戦後にかけて、漢字廃止運動にかかわった。 >阿辻は、「表音派」が力を持った風潮の根底に、文化人・経済人の一部にあったコンプレックスを指摘する。 >日本語では、英文タイプライターのような機器で文字を早く打てないということが、伊藤忠兵衛が「カタカナ」運動を推進しようとした大きな理由になっていたという。
確かに仮名文字タイプライターは英文タイプライターのように早くは打てませんね。書いた人には意味が解る。始めて読む人には意味がわからない。これは私の経験です。
(略) >日本語を思考に使う意味 >改めて、漢字の廃止、ローマ字の採用を唱えた「アメリカ教育使節団報告書」を読み返してみる。 >「ローマ字は民主主義的市民精神と国際的理解の成長に大いに役立つであろう」
そうですね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
>「いまこそ、国語改革のこの記念すべき第一歩を踏み出す絶好の好機である」 >「日本人は、国内生活においても、また国際的思考においても、簡単で能率的な文字による伝達方法を必要とするような新しい方向に向かって進み出している」 >「ローマ字の採用は、国境を超えた知識や思想の伝達のために大きな貢献をすることになるであろう」
そうですね。我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の英語の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。
>この報告書に従い、日本人が漢字や仮名をつかわず、みんなローマ字を使うようになっていたら、日本語はすっかり変質していただろう。 >日本人にとっても、日本語の良い文章が書けるようになるには、膨大な時間がかかる。
日本人は英語の正しい考え方を覚える必要がありますね。そうでなければ国際社会の孤児になる。考えが外国人に通じないからである。
>その時間を使って、英語を学習していたら、たしかに日本人の英語力はもっと伸び、「国境を越えた知識や思想の伝達」には便利だったのかもしれない。 >アメリカの国務省が外交官を養成するプログラムで、日本語はもっとも習得が難しい「カテゴリー5」に分類されている。
そうでしょうね。日本語は高文脈文化の言語ですからね。お互いに馴れ合いが必要ですね。
>外国人にとっても、ローマ字を使った日本語は比較的マスターしやすい言語になっていたかもしれない。 >ただ、だからといって、戦後、日本語がローマ字表記になっていたほうがよかったとは思えない。 >このグローバル化時代、英語が上手であれば、世界中で仕事がしやすいのは事実である。 >ワシントンのシンクタンク研究員との雑談で「米国人は、母国語が英語というだけで、ほんと得だよね」とからかったことがある。 >彼女は真顔で「英語しか話せない多くの米国人は、世界の多様性が理解できない。 >逆に、大きなハンディだ」と反論した。
そんなことはないですね。彼女は間違っています。金持ちのアメリカ人は世界旅行をすれば人類の多様性を現地で確かめることができます。 人類の知識の大半は、英語の文献になって蓄えられています。ですから、5000年前のエジプトの様子も1500年前のマヤ文明のことも英語の文献から知ることができます。だから、アングロ・サクソンは知識の山の最短距離の位置に住んでいることになります。これは知識を求める人たちにとっては大きな助けになります。英語で書かれた原書は日本人にとって身近な宝物となることはないでしょう。
>日本語と英語の表記や構造が全く違うことから、日本人の英語習得の苦労は絶えないが、彼女の見方も真実を突いている。
彼女は敢えて苦労をする必要のない、英語圏の幸せな身分の人です。アメリカ人の日本語下手と日本人の英語下手では人生に対する重みが違いますね。彼らは文明の中心に住んでいます。我々はその逆の境遇にいます。
>日本人は、漢字、カタカナ、ひらがなが交じる繊細な日本語を使いこなしながら世界を相対化し、独自の思考や文化、美的感覚を磨ける面があるように思う。
それは気分・雰囲気の問題でしょうね。気持の良い話ですね。
>ノーベル化学賞を受賞した野依良治は、今年1月の教育新聞でのインタビューで、科学における日本語の大切さを強調している。 >江戸時代から、外国語を漢字翻訳したことによって「抽象概念」の理解が進み、一般人の理科の理解能力が高まったと野依はみる。 >「英語は外国語であり『道具』です。
考えは仕事であり言語はそのための道具でしょうね。ですから道具の持ち味は作品 (考え) に大きく影響することになるでしょう。 言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。 非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治に必要である。日本人の場合は、無哲学・能天気にためにノンポリ・政治音痴になっている。これでは冴えた政治は行われない。 自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。 日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。 意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
>しかし、母語である日本語は『精神』そのものであると知ってほしい」と述べている。
日本人には意思がない。だから日本人は意思決定ができない。 その代わりに恣意 (私意・我儘・身勝手) を利用する。恣意を鍛えて ’意地・根性・大和魂’ として恣意決定を利用する。これが精神主義の行き方でしょうね。 意思は文章内容になるので意味がある。恣意はバラバラな単語のままで存在するから意味がない。恣意的な行為の理由を問われても答えられないから、ただ口惜しさがこみあげて来るのである。 '敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである' (昭和天皇)
>「日本語の知的伝達能力は圧倒的に高いので、今後も読み書きについては最大限の努力を」と訴える。
日本語は高文脈文化の言語ですから伝達能力は良くないですね。
>また、京都大学総長の山極寿一は、ジャーナリスト池上彰との対談(週刊文春の今年の新年特大号)で、日本人で最初にノーベル賞を受賞した湯川秀樹の「中間子理論」は、西田幾多郎の哲学に通じていると指摘。 >「西田哲学というのは、『間』の理論で、つまり『私とあなた』の“と”のことなんですね。 >これは、なかなか欧米人には考えつかない、日本的な思考の効用だったと思います」と述べている。
日本人は理屈を抜きにして発想することが多いですから、欧米人には理解できにくいことも多いでしょうね。
>言語は、思考の中核をなしている。
そうですね。非現実 (哲学) の内容は哲学になりますね。 現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。問答無用である。だから、現実はご唱和の内容になる。 非現実 (考え) の内容は見ることができない。ただの話である。だが文になる。文にならないものは考えではない。 矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。考えの優劣を競い合う議論も可能になる。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れる。その一例を以下に掲げる。 私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。思考を停止して人は無哲学の人で、つかみどころのない人間である。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。 評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。 私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。 政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。 我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。 孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)
我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。 、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)
日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。 日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)
>日本語の表記がローマ字にならず、また、ワープロの発明によって、多くの漢字が生き残ってよかった、と私は思う。>ただ、戦後、「当用漢字表」において基本的にふりがなが廃止されたのは残念である。
漢字には音読みと訓読みがあるのでフリガナは必要ですね。役所の書類の氏名欄に倣ってフリガナを記入させるべきですね。
>漢字にふりがながついていることによって、子供たちが難しい漢字を覚えやすくなり、漢字の読み方を間違えて記憶することも避けられる。
そうですね。外国人にもフリガナは必要ですね。
>戦前の知識人の教養は、「ふりがな」の効用も大きいのではないかと思うこともある。>ふりがなを多用することで、外国人にとっても、日本語を習得しやすくなる効果もあるのではないだろうか。
そうですね。外国人の為の日本語教室でもフリガナを使っていますね。
>日本語の美しさは大切にしたい。 >同時に、学びにくい「孤高」の言語である必要はないとも思う。
そうですね。自己の意思を示せば当事者・関係者となる。示さなければ傍観者にとどまる。日本人には意思がない。だから自己の意思を示さない。それで日本人は傍観者にとどまり、孤高の人になっている。我が国は世界の中にあって、世界に属していない。
>(2019年1月24日付で朝日新聞オピニオン面に掲載された「ザ・コラム」に大幅に加筆しました)
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