2023年04月21日(金) 

 

>「政治をもっと身近に感じて」 若者発の主権者教育に注目   >共同通信社 によるストーリー • 昨日 17:47  

> 10代35.42%、20代33.99%。  

 

無哲学・能天気の国ですからね。ノンポリ・政治音痴が多いのでしょう。   

 

>昨年7月の参院選の投票率だ。   

>いずれも全体の52.05%を下回った。   

>若者の投票率が低迷する中、主権者教育が必要だと考え同世代に政治参加の重要性を訴える若者らがいる。   

>「政治をもっと身近に感じてほしい」。  

 

日本人には世界観が無い。だから、未来の世界の内容も想定外になっている。あるべき姿の実現など思いもかけていない。   

この国には何でもあるが、ただ夢と希望だけが無い。    

 

>イベントや出前授業が注目を集めている。

> 3月下旬、東京・下北沢に、ほとんどの国政政党ののぼり旗とテントが並び、小さなステージが設置された。   

 

日本人の文化には形式 (現実・事実) があって内容 (非現実・考え) が無い。だから折角の努力も猿真似になりやすい。     

 

>北欧で行われている、投票の約1カ月前から主要駅前などで政治家と市民が直接意見を交わすために作られる「選挙小屋」にならった。   

>10~20代の若者らが中心となって企画した。   

> 主催者によると、日本初の取り組み。   

>2日間で約700人の来場を見込んだが、雨にもかかわらず約3千人が訪れた。   

> 議員の女性比率向上や政界進出について議論が行われたステージには立ち見も。   

> 今春から大学生の太田勝也さん(18)は、各党のチラシを手に「選挙権を得たばかりで、いろんな政党の考えを知りたくて来た。   

>違いが分かり面白かった」と話した。   

 

言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

 

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。これは政治に必要である。日本人の場合は、無哲学・能天気にためにノンポリ・政治音痴になっている。これでは冴えた政治は行われない。

 

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

 

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には非現実を内容とする世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

 

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。そこで、不完全な現実に囲まれて無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。 

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

 

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閲覧数114 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2023/04/21 01:24
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