>「戦争ぐらいむなしいものはない」松山大空襲から78年 戦争犠牲者平和記念追悼式【愛媛】 >テレビ愛媛 の意見 • 昨日 19:38 >松山大空襲から78年目の26日、愛媛県松山市で犠牲者を追悼する式典が営まれ、平和への思いを胸に刻みました。 >松山市の平和記念広場では78年前の松山大空襲の犠牲者を追悼する式典が営まれ、遺族や市の関係者らおよそ70人が参列しました。 >式では黙祷が捧げられた後、松山市の野志市長が追悼の言葉を述べました。 >野志市長:「いま当たり前のように感じている平和が、戦争で命を落とされた方々の尊い犠牲の上に築かれていることを私たちは決して忘れません」
太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も早々と投降して、75000人以上の将兵の命を救った。 太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。 日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はなかったのか。 人命の尊重はどのように考えられていたのであろうか。
>このあと参列者が1人1人が菊の花を献花台へ手向けました。 >松山市平和記念実行委員会 白石世津子さん: >「本当に戦争ぐらいむなしいものはないと思います。 >関係ない人も被害にあうということです。 >そういうことが今後一切あってはならないと私は思っています」
‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)
>参列者は改めて平和への思いを胸に刻んでいました。
日本人の文化には形式があって内容が無い。 たとえば、生まれた時には宮参り、結婚式はキリスト教会、葬儀の時は仏式のご厄介になる。と言ったようなものである。内容が無いからそれだけ余計に形式には力が入る。だから、改革運動は難しい。 毎年供養 (針供養のようなもの) を繰り返しているが進歩がない。 ‘過ちは繰り返しませぬから’ と言うが、何が過ちかを説明しない。日本人の供養は歌詠み (気分・雰囲気・感情) であって哲学 (内容) ではない。だから同じ過ちを避ける手段は得られていない。それで真の反省にはならない。 何が過ちであるかを知る努力がなければ楽ちんではあるが、思考停止の人間にはこれしか道がない。だから人間の改革が必要である。 我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
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