(略) >大学生がテレビの選挙報道に求めること >立教大学メディア社会学科の砂川ゼミ。 >今回の選挙では、テレビではないメディアを投票の参考にした学生が多かった。 >立教大学3年 近江栞さん 「選挙の情報を何から得た?」 >立教大学3年 内藤雅さん 「X(旧Twitter)を見て、興味を持ったらそのまま端末で、この人どういう人なんだろうっていう事実確認とか他の意見とか、調べたりしてみたなっていう感じです。 >テレビでは補いきれない多角的な視点は、自分から能動的に動けば得られるのがメリットだなって思って使ってました」 >選挙報道には、こんな印象を持っていた。 >立教大学3年 内藤雅さん 「テレビ見てたじゃん。 >選挙始まりました、2週間前は選挙について報道していて、その後1週間前、全然報道されなくなって、当日また報道されますみたいな」 >立教大学3年 近江栞さん >「確かに。 >影響与えちゃうからかな?」 >立教大学3年 内藤雅さん 「偏りでとか…?」 >立教大学3年 龍野隼さん 「能登半島とかで大変な人がいる中、そもそも裏金よりも、もっと議論すべきところがあるんじゃないかってずっと思ってて、裏金問題よりも時間を割いてくれると良かったかなというふうに思います」 >立教大学3年 内藤雅さん 「自民党裏金解決しますで、立民は裏金を断固断絶しますで、国民民主は103万の壁を撤廃しますみたいなことを言ってくれたから、ちょっと目立って、議席増えてそうとか思ったりしてた」 >議論を終えた学生たち。 >いま、テレビの選挙報道に求めることとは… >山本キャスター 「皆さんの議論は耳が痛すぎて、でも本当に率直な意見だし、私も共感することがすごくたくさんあって勉強になりました。 >ありがとうございます」 >立教大学3年 龍野隼さん 「不祥事とかまだ明らかになってない問題は確実にあると思っていて、それを追及するよりかは、その公約、今後どうしていくかということは、もっと中心的に報道してくれた方が投票に行きやすくなるかなというふうに思います」
そうですね。過去に拘るより未来に賭ける姿勢が必要ですね。前向きな姿勢ですね。
>立教大学3年 金子美優さん 「例えばインタビューで若者にどういうことが困ってますかというのを聞き取りして、それが公約で言うとこういうことですよって説明してくれるようなことを、メディアがやってくれると、とっつきやすいし、政治が身近なものになる」
そうですね。 我が国の日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答を出せる編集者が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だが、自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく: 世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走に迷走を続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、わが国の若者にも夢と希望が無い。 イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
>メディアに問われる政治的公平について、ゼミを担当する教授は… >立教大学メディア社会学科 砂川浩慶 教授 「『政治的公平』というのは、一つの番組の中だけで政治的公平をとるとは、元々考えられてないんですよね。 >政治家からいろいろクレームくると面倒くさいなっていうのがあって、どうしても自主規制してしまっているという面があって、有権者である国民にとって何が必要な情報なのかという観点から考えないと、選挙報道ってなかなか変わらないと思うんですよね」
そうですね。日本人には意思がない。だから、自己主張がなくて、自主規制がある。不自由を常と思えば不足なし。規制ずくめで態度がなかなか変わらない。社会がなかなか変わらない。
(略)
マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。 ‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下) マ元帥の発言はどの駐日大使のものよりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。 ‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー) なるほどこれでは日本の大人が子供子どもして見えてもしかたがないですね。わが国の学歴社会は序列社会の言い換えにすぎない。 「うん、頭はいい。しかし本当に信頼できるかね」 (フランク・ギブニー) ‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官) 日本人の無哲学・能天気はついにバレたか。
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