2026年07月10日(金) 

 

>AERA DIGITAL   >「皇室典範」改正問題 女性皇族の「非自由さ」への女性の「怒り」は新しい時代を生む 北原みのり   >北原みのりによるストーリー   >21時間・   

> 本稿を読んでくださっている20代の雑誌編集者から、皇室典範改正案についてのコメントを求められた。    

>はじめ一般的な電話取材として受けていたのだが、電話口から編集者の真剣な怒りのようなものを感じ、あれと思った。    

>仕事だけれど、仕事だけじゃない感情。    

>愛子さまと同世代の女性として、「(愛子さまが天皇になるのは)あり得ない」「結婚する人もいないですよ」「男子を産まなきゃならないという、すごいプレッシャーがかかるわけですね」といった男性政治家の発言に、自分ごとのように屈辱を感じているのが伝わってきた。    

> 取材中に、「(愛子さまと)同世代の女性に向けてコメントを」という質問も受けた。    

>皇室についてのコメントを求められるなかで、「(一般)女性に向けて……」と聞かれることなど普通はないことで、これは何かが動いていることを実感する。    

>この間、政府からずっと聞かされている「何が何でも男でなければだめなんだ」という大きな声に、「女性がおとしめられている」と感じ怒り、「愛子さまをお守りしたい」の思いが強くなる作用が女たちに生まれているのかもしれない。    

>違和感は天皇制そのものではなく、男女の序列を自明とする高市早苗政権に対してだ。    

> 戦後刷新された「民主的」な皇室がはらむ矛盾は解決されぬまま、年々複雑になり、絡んだ糸はもうほどきようがないところまで来ている。    

>そしてはっきりしているのは、全ての矛盾の出発点が“女性という存在”であることだ。    

>女性をどのように扱っていいのかがいまだにわからない、この国の矛盾が噴き出ている。    

 

そうですね。男女同権が必要ですね。   

 

> そもそもこの国の近代は、「男だけが国民」という体で始まった。    

>女の権利ゼロ状態の男尊女卑体制で約80年間やってきて戦争に負け、男女平等のタテマエを取り始めてたったの約80年。    

>約160年間ちょうど半分ずつやってきてようやく、2026年の日本社会の無意識というものは戦前気分が半分抜けてきた……くらいなのかもしれない。    

 

日本人は相変わらず無哲学・能天気ですからね。   

 

> 女性に関する法律だって、長い間戦前状態だ。    

>女性にだけ設けられてきた再婚禁止期間を定めた法律は明治31(1898)年に施行されたものだが、廃止されたのは、たった2年前のこと。    

>性犯罪が親告罪とされたのは明治時代だが、親告罪でなくなったのはたった9年前のこと。    

>民法も変わったものの、男性の名字に変える女性が圧倒的多数で、慣習的にも「長男の嫁」という言葉がまだ活用されるくらいに、男女の序列は「家」を中心にくっきりと生き残っている。   

 

日本人の礼儀は序列作法ですからね。日本人は序列メンタリティがなくては暮らせませんね。      

 

>法律や制度の中に女性がいないのだ。   

 

そうですね。   

 

> そして女性がいない制度の最たるものが「皇室典範」なのかもしれない。

 

そうですね。   

 

> 長男が家を継がねばならない。    

>長男と結婚した女は男児を産む(はずだ)。    

>娘は結婚したら家を出なければいけない。    

>娘は結婚しなければ外には出られない。    

> そんな戦前の当たり前を皇室に押しつけた結果が、今なのだろう。    

 

そうですね。   

 

>女性の“腹”だけをあてにして継続していた制度が崩壊しかけているなか、これを修復するためには「新しい男子の投入」ではなく、女性を“男性と同じ人間”として認める、という以外ないのではないか。

 

そうですね。   

 

>それでしか皇室とは継続できない制度であり、そしてそうしなければ結局、女性の尊厳が奪われるだけなのだから。   

 

日の下に新しきものなし。現実界は千変万化してとどまるところ知らない。   

だが、人類は進歩する。進歩の方向は人類が決める。男女は平等である。これは人類が決めたから、我が国の男系男子の皇位継承は進歩に逆行することになる。      

あらかたの日本人は無哲学・能天気である。無哲学でいては、法案が人類の進歩に巡行か逆行かを見分けることができない。だから、人類の進歩のために‘各人に哲学は必要である’。Everyone needs a philosophy.

日本人には世界観がない。だから、‘我々はどこに行くのか’という哲学の命題に答えることができないでいる。これは不勉強ということになる。           

 

 皇室の女性たちの不自由さや困難を、私たちはずっと現在進行形で目にしてきた。「雅子さま、お気の毒……」「眞子さん、自由になれてよかった……」「愛子さま、頑張って」……と、それぞれがそれぞれの思いを込めて皇室の女性たちを語ってきた。でも、もしかしたら“可哀想”で“不自由”で“自分の努力では何も変えられない”という無気力を強いられているのは、この国に生きている一般の女のほうなのかもしれない。    

そんなふうに今の女性たちは気づき始めたのかもしれない。    

私の延長に雅子さまの人生があるような気がする、私の人生の一部として愛子さまへの侮辱を感じる……そんなふうに感じられるほどに、皇室というものが私たちにとって身近になった。   

それは天皇制を問題視する側からすれば後退なのかもしれないが、皇室の女性たちへの強い共感と同情の波は、きっと何か新しい時代を生むのだろうと私は期待したい。    

>中曽根弘文氏の発言に対する悔しさは、きっとすぐにはおさまらない。    

 

日本人は思考を停止しているから、自分自身の意見を明らかにできない。それで、気分・雰囲気・感情に関した歌を詠む。歌には意味がないので議論にならない。これが我が国の伝統文化である。

わが国のマスコミの編集長でも例外ではない。だからいくら外部の情報を流しても、それが社会の木鐸の役割を果すことはない。「それでどうした、それがどうした」の問いに答えが出せないのである。我々日本人は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。だから個人の価値が低い。[木鐸=ぼくたく:世人を教え導く人]        

英米流の高等教育機関において自己独自の見解を明らかにすれば、その独創性が認められた場合のは学位 (博士号など) が得られる。ぜひやるべき勉強です。   

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数37 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2026/07/10 15:19
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