瀬木比呂志氏 |
>プレジデントオンライン >だから天皇が女性でも問題はない…法学者「一部保守派が直視しない、皇族が人間であるという事実」 >瀬木比呂志によるストーリー・ >10時間・ >今国会での皇室典範改正審議を機に、天皇制をめぐる多角的な論議が続いている。 >明治大学名誉教授で法学者の瀬木比呂志さんは「日本の天皇・皇族の基本的人権や個人としての生き方、人間の尊厳が真に尊重されるようになれば、日本人全体のあり方も変わっていく」という――。
そうですね。
>※本稿は、9月発売予定の瀬木比呂志『法律家が見た日本社会の病理「空気」を打ち破る個と論理の構築へ』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。 (略) >天皇は「神に近い部分もある」という含み >最高裁の判例は、天皇機関説事件を思い出させるとまではいわないとしても、戦前の天皇の地位に引きずられ、かつ、支配層の暗黙の圧力に忖度した考え方なのではないだろうか。
そうでしょうね。
>つまり、突き詰めれば、天皇は、「基本的に人間とはいえ神に近い部分もある」という含みをもつ判断なのではないだろうか(付け加えれば、たとえ天皇が被告とされても、意味のない訴えなら却下、棄却となるし、弁護士に依頼することももちろんできるので、法廷に出頭する必要はない)。 >また、天皇に関するメディアの公式的報道や各種の儀式を含め公的な場面におけるその挙措等についても、これは文化の問題なのである程度やむをえないのかもしれないが、私は、「まだ、いくぶんは、あるいはかなりの程度に、『神に近い』取扱いではないかな」と感じる。 >後にも述べるが、イギリス、スウェーデン、オランダ、デンマーク、ノルウェー等の王族と比較しても、そのことはいえると思う。
彼らの社会は ‘ため口社会’ ですからね。理屈が通ります。 [ため口: 相手と対等の立場でものをいうこと]
>実際、外国人の中には、日本の天皇は、今でも、公的に神のように扱われていると考えている人々が相当に多い(天皇に関連する記述の端々にそのような認識の表れている場合が、ままある)。
我々の社会は序列社会ですからね。対等な立場でものをいうことができませんからね。日本人は ’ご無理ご尤もです’ といいます。理屈が通らないからです。民主主義にも程度の差がありますね。
>「神に近い扱い?」と同時に行われる「人権軽視?」 >前記のような問題は、天皇のみならず皇族の取扱いにも表れてくる。 >「程度の差はあれいくぶんは『神に近い』取扱い」ということになると、人間としては大変な不自由を強いられることになるからだ。 >詳しく書くことは避けるが、皇太子妃(当時)の精神的不調、それに関連しての皇太子(同)の、日本の皇族としては思い切ったメッセージ発出、皇族の交際や結婚についてまで保守系メディアを中心としたマスコミが種々書き立て、また、同様の報道を続け、皇室を離れる際の一時金を辞退しての皇籍離脱後にまでそれが続くという有様(いわゆる小室(こむろ)夫妻結婚問題)、こうした事態が続くのも、神に近い取扱いの一方ではその「個人としての人権」や「人間の尊厳」が十分に尊重されていないからではないだろうか。
特別な人間は、わが国では神様になりますね。
>記者会見における皇太子(当時)の発言だけ引用しておきたい(宮内庁ウェブサイトから。読点のかたちを変えたほかは、原文のまま。2004年)。 >「長野県での滞在は、とても有益なものではあったと思いますが、まだ、雅子には依然として体調に波がある状態です。 >誕生日の会見の折にもお話しましたが、雅子にはこの10年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、私が見るところ、そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。 >それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」
人格否定は許せませんね。
>「品位のない冗談の種」にされることも >以上のような問題は、天皇制のイメージをみずからの願望で規定し、それにまつわる幻想や神話を維持したがる、そのような保守派の人々の問題でもある。 >つまり、国粋保守派を中核とするような保守派とそれに同調するメディアの問題ということだ。 >私は、皇族に近い位置にある民間人とお話ししたことが一度あるのだが、その方も、「国粋保守派の人々は、実をいえば、必ずしも天皇・皇族やその意向を尊重していません。 >仲間うちでは、品位のない冗談の種にするようなことさえあるのです」と語っていた。 >前記のとおり、日本において天皇制にまつわる真摯な議論はタブー視されており、その程度は、アメリカにおけるキリスト教に関する議論以上かと思われるのだが、一方、先のように、主として保守系メディアによる、まるで個々人にプライヴァシーがないかのような報道は、あれこれなされているのである(なお、念のため付言すれば、私は、こうした報道を権力によって規制すべきだなどという意見ではない。 >保守系メディアの報道の在り方には人権に対する配慮が乏しくないかといっているにすぎない)。 >人権が尊重されない日本の皇族 >つまり、「真摯な分析や議論は、硬い書物においてならともかく、一般的にはできない(なぜなら、支配的なシステム、そのような保守派にとって危険であり、また、彼らのアイデンティティをもおびやかすから)」、しかし、「個人としての人権や人間の尊厳が尊重されていない報道は別にかまわない(なぜなら、先のような人々にとって特に害はなく、かつ、彼らの意に沿うように天皇・皇族のあり方をコントロールしてゆくために好都合だから)」ということなのではないだろうか。 >私がまだ若かったころ、現天皇が配偶者探しに苦労されているという趣旨のテレビ番組を見たことがある。 >候補に挙がった人たちが、その後婚約したり留学したりする例が少なくないとする内容であったように記憶している(なお、現皇后も、当時の皇太子との結婚につき当初は固辞の姿勢を続けていたと報じられている)。 >このような状況が生じがちな背景には、天皇・皇族に対する以上のような制度的・社会的取扱いがかなり影響しているのではないだろうか。 >その取扱いに比較的近い部分のあるイギリスの王族たちでも、個人としての自由は、より広く認められていると思われる。 >「日の丸出すと、右翼と思われちゃう」 >天皇制のイメージをみずからの願望で規定する人々の問題に関連して述べると、昔から、彼らの意に沿うような天皇制イメージにこだわり、また国歌、国旗等の位置付けについて、何かといえば人々に強制するような動きや発言をしがちだという問題もある(皇室典範改正、国旗損壊罪創設といった最近〔2026年〕の動向についても、こうした傾向は強く見られる)。
伝統的な歌詠みの内容も自らの願望を示していますね。 ‘いかにも〇〇らしい’ の探求が日本人の生涯の目的になっていますね。歌は文にならないので意味がない。だから議論にはなりませんね。趣味には論拠がない。There is no accounting for tastes.
>たとえば、建国記念の日(記紀神話に由来する初代天皇、神武天皇の即位日。 >旧暦紀元前660年1月1日)の創設は、戦後日本のあり方に照らして適切なものだったのか、また、『君が代』が戦後の国歌として本当に適切なものなのかといった議論は、右のような人々によって、非常に強く封じ込められてしまった。 >私が子どもだったころ、祝日に国旗を家の前に掲げる人々は、普通にたくさんいた。 >しかし、そのような風習は、だんだんすたれていった。 >国粋保守派の人々はそれを嘆くが、そのようになっていった大きな原因の一つは、国歌や国旗を人々に強制しようとする彼らの動きだったのではないか。 >実際、私の実家のあった名古屋の古い下町でさえ、老人たちが、「もう、日の丸は出さん。出すと、右翼と思われちゃうでね」と話していたのを記憶している。 (略) >---------- 瀬木 比呂志(せぎ・ひろし) 明治大学名誉教授 1954年、愛知県名古屋市生まれ。 >東京大学法学部在学中に司法試験に合格。 >79年以降、裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務。 >2012年より現職。 >14年上梓の『絶望の裁判所』が大反響を呼ぶ。 >続編『ニッポンの裁判』、『檻の中の裁判官』ほか著書多数。 > ----------
日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが日本社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会 (身分制度) の言い換えに過ぎない。明治を境にして一生変えられない身分制度が変えられる身分制度になったのである。だから、日本人は没個性の受験勉強に狂奔する。わが国の学歴社会は学問の発展には何ら寄与していない。人間としての順位の比較は没個性的でなくてはならない。個性を勘案したら序列判定に不公平が生じる。受験戦争は他人の受け売りを使った戦になっている。だから、我が国の序列競争の激しさは個性の育成の足かせになり、自己実現の妨げになっている。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅苦しい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。日本人は人間が真に平等であるという実感を体験することができない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは日本語文法に時制 (tense) というものがあいために非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分名前を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる個人的な義務) を果たすことに懸命になる。そして、かたい契りの義兄弟になる者もいる。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の序列内順位は上昇する可能性がある。個性に焦点を絞ることのない人間の比較は叙勲となって国体 (序列国家) に関する国民の意識を高めている。
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