清水克行氏 |
>文春オンライン >天皇家はなぜ続いたか? 「日本史上、最も危険だったのは足利義満の時代だった」 >清水克行によるストーリー >・3時間・ > 今国会で皇族数確保のため、皇室典範が初めて本格的に改正された。
序列メンタリティの持ち主からすると、序列は長いほど権威がありますからね。
>天皇家は中世になって権力を失い、危機を迎えても、なぜ存続してきたのか。
それは神がかっていたからでしょう。
>◆◆◆ >「天皇」をめぐって騒然とした情勢に > 僕がまだ高校生だった1989年1月、「昭和」から「平成」への代替りが起こった。 > その前年秋から昭和天皇は重体に陥り、テレビは深夜でも天皇の体温と吐血量・下血量をニューステロップとして流し続け、列島全土に自粛ムードが広がった。 >井上陽水さんが車窓から「みなさ~ん、お元気ですか~?」と能天気に語りかける自動車CMはセリフ音声が消されて口パクになり、各地の祭りやイベントは軒並み中止。 >高校2年生で文化祭の準備に張り切っていた僕らも、万一の際には文化祭が中止になる可能性があることを先生から告げられてショックをうけた。 > 代替り後も、90年1月には「昭和天皇に戦争責任がある」と発言した長崎市長が右翼に狙撃され重傷を負い、4月には大嘗祭(だいじょうさい)に反対した大学学長の自宅に銃弾が撃ち込まれるなど、世間は「天皇」をめぐって騒然とした情勢となっていた。 > 生まれたときから「天皇」といえば昭和天皇しか知らず、それまで特段、天皇という存在を意識してこなかった僕にとって、この1、2年の出来事は衝撃的だった。 >なぜ天皇の存在が、こんなにも日本社会に大きな影響を与えるのか? >放課後に予備校の授業を聴きながら、ずっとそんなことを考えていた。 >いま思えば、大学で日本史を専攻しようと高校生の僕が決心したのには、そうした時代背景もあったように思う。 > その頃は、ちょうど歴史学界でも、天皇について本格的に研究しようという機運が高まっていた。 >日本中世史家の網野善彦(あみのよしひこ)(1928~2004)さんは、高校教員時代に「中世になって権力を失ったと言われながらも、なぜ天皇家はいまだに続いているのか?」と生徒から質問されて答えに窮した体験をし、以来、天皇制を下支えした非農業民の世界を解明することに情熱を傾けていた。 >政治史研究の分野では、今谷明(いまたにあきら)さんが、日本史上、天皇制にとって最も危機だったのは、信長でも秀吉でもなく足利義満の時代で、あと一歩で義満は王権簒奪(さんだつ)に成功するところだった、というセンセーショナルな学説を唱えて、世間の話題をさらった(それまで地味だった室町時代が一般に注目されるようになったのは、この今谷説の存在が大きい)。 >その他にも、当時は文化人類学からの“祭祀王”としての天皇の特質に注目した研究なども独特な存在感を放っていた。 >天皇の呪力を称える『今昔物語集』の最終話 > ただ、その後しばらくすると、そうした天皇に関する研究、とくにその権威の源泉を探ろうとするアプローチは尻すぼみに萎(しぼ)み、一気に流行らなくなってしまう。 >その理由は、それらの新しい研究に対して「天皇権威を過大評価している」という学界内からの異論が立て続けに出されたためだ。 >たしかに、それらの研究が実証的に様々な問題を抱えていたことは確かだが、当時の批判のなかには明らかに「寝た子を起こすな」というニュアンスのものもあって、いま振り返ると学問的な批判とは言いがたいものもあった。 >とくに、あの代替りの異様な雰囲気に押されて日本史の勉強を志した僕としては、その後、天皇権威の社会基盤に注目した研究がほとんど見られなくなってしまったことは、率直に寂しい。 > たとえば、平安末期にできた『今昔物語集』の最終話には、当時の庶民が天皇をどう見ていたかを示す、こんな不思議な説話が載っている。 > 今は昔、近江国栗太(くるもと)郡(滋賀県南部)に巨大な柞(ははそ)(カシ類の総称)の樹が生えていた。 >その周囲はおよそ900メートルというのだから、途方もなく大きい。 >あまりに巨大なので、その影が朝には丹波国(京都府中部と兵庫県の一部)まで伸び、夕には伊勢国(三重県の大部分)まで伸びたという。 >雷が鳴っても動かず、大風が吹いても揺るがない。 >でも、そうなると、地元の百姓たちは農地を耕やそうにも、この樹の影になってしまい、まったく田畠に日が当たらない。 >そこで困った百姓たちが朝廷にこのことを訴えたところ、天皇は掃部宿禰(かにもりのすくね)という廷臣をお遣わしになって、この巨木をみごとに切り倒してくれた。 >以来、この土地は豊かに富み栄えたとさ(巻31の37話)。 > そんな巨大な樹があるわけないのだから、もちろんこの話は史実ではないだろう。 >ただ、この説話の面白いのは、人間の力を超える巨大な自然に対して、それに対抗する存在として、他でもない天皇が呼び出されているところだ。 >しかも、そんな話が『今昔物語集』全1000余話の最末に置かれているというのも、極めて象徴的である。 >古代の説話のなかには、こんな天皇の呪力を称(たた)えるような話が他にいくつも確認できる。 >実力があっても、将軍や大名ではダメ > 実際、この手の話はなにも平安時代に限ったものではなく、遥か後の室町時代にも引き続き再生産され続けているのだ。 > 長禄4年(1460)、山城国(京都府南部)で実際にあった話である。竹田寺という寺院の修造をしようと人々が堀をほっていたところ、土の中から、突如、謎の石櫃(いしびつ)が姿を現した。 >この石櫃は大変重いもので、引き上げようとしても引き上げられず、ふたを開けようと思っても一向に開かなかった。 >そこで村人たちはその土地の領主に相談したところ、領主の三条氏は「これはまったく奇怪なことだ。 >私の責任範囲を超えている」と怯(おび)えだし、そのまま事態は朝廷に報告されるところとなった。 > その結果、ときの後花園(ごはなぞの)天皇はわざわざ蔵人(くろうど)二人を現地に派遣して、彼ら勅使の立会いのもと、石櫃のふたが開けられることとなった。 >かくして仰々(ぎょうぎょう)しい準備のすえ、石のふたが開けられる。 >中からどんなお宝が出てくるのか、あるいはどんな物(もの)の怪(け)が飛び出してくるのか……。 >ところが、多くの人々の期待と不安に反して、石櫃の中には法華経と阿弥陀経が入っていたぐらいで、残念ながらとくに大したものは見つからなかった。 >わざわざ都から下向してきた勅使たちの苦労は、けっきょく、骨折り損に終わったのだった(『経覚私要鈔』長禄4年10月10日条)。 > こんなことでいちいち相談を持ち込まれる天皇も難儀だろうが、当時の人々は不思議なものに遭遇すると、何らかの祟りを恐れて、それを超える権威にすがろうと考えたようだ。
そうですね。
>そういう時は、いくら実力があるからといって、将軍や大名ではダメ。 >やはり古代以来の天皇という存在が、なによりも重宝された。
そうですね。他力本願・神頼みですね。
> もちろん、これですべてが説明できるわけでもないが、政治権力を喪失しながらも天皇が日本史上に存続しえた謎を本当に解明するのならば、こうした当時の人々の心性にまで立ち返って、もう一度、点検していく必要があるだろう。
そうですね。自らの願望で制度を規定しようとする人達がいますからね。 「「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである」 (中根千絵)
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