2026年07月20日(月) 

 

JBpress   >OIST・沖縄科学技術大学院大学の成功はなぜ再現できないのか? 世界9位と世界360位の落差が映し出す大学改革の盲点   >澤田哲生によるストーリー   >・2日・   

> 政府は、OIST(沖縄科学技術大学院大学)を「世界に肩を並べる成功例」として掲げている。    

>しかし、その「成功」は、ものさしの当て方ひとつで姿を変える。    

> たとえば、質の高い科学雑誌への論文掲載を、機関の研究規模に応じて正規化集計する「Nature Index」という調査がある。    

2019年のこの調査を機関の規模で正規化した順位で見ると、OISTは世界9位になる。    

>ところが、同じ2019年の同じ調査を、正規化せず論文数だけで見ると、OISTは世界360位まで下がる。    

>同じ大学、同じ年の同じ調査が、ものさしの当て方ひとつで「世界9位」にも「世界360位」にもなるのだ。    

 

物差しが違えば、それによる測定結果も当然変わるでしょうね。   

 

> ここで指摘したいのは、OISTで行われている研究そのものではない。    

>そこには本物の優れた研究がある。指摘したいのは、「少人数・英語・注目される分野に集中する」というOISTだけにしか使えない特別なやり方を、まるでどの大学にも当てはまる「正解」であるかのように語り、それを普通の大学に押しつけようとする政策の考え方のほうである。

 

それぞれの大学が自己の特色を生かすべきですね。   

 

>普通の国立大学とは異なる存在    

>「成功」は、都合のいいものさしを選ぶことで作られる。    

> 沖縄科学技術大学院大学(OIST)は、2001年に当時の沖縄担当大臣・尾身幸次氏が構想を打ち出し、2012年に学生を受け入れ始めた大学院大学である。   

>学部(大学14年生にあたる課程)は持たず、5年一貫の博士課程だけでできている。    

> 普通の国立大学は文部科学省が管轄するが、OISTは違う。    

>管轄しているのは内閣府の沖縄振興局で、根拠になっている法律も「沖縄振興特別措置法」や「沖縄科学技術大学院大学学園法」という、他のどの大学とも全く違うものだ。    

> この違いは、主にお金の問題であると読み解くことができる。    

OISTとは何か──ルールの外に出るための設計    

> OISTは学校教育法上の私立大学であり、2011年に文部科学大臣の設置認可を受けている点では、普通の私立大学と変わらない。    

>しかし、私立大学への国の補助金(私学助成)には経常経費の2分の1という上限が法律で定められており、この上限のもとでは、OISTが必要とする規模の財政支援を行うことができない。    

> また、学部を置かず大学院課程だけで完結するという設計自体は、実は文部科学省の通常の枠組みの中にも前例がある。    

>北陸先端科学技術大学院大学(JAIST)や総合研究大学院大学(総研大)など、学部を持たない「独立大学院大学」は、1980年代から国立大学として設置されてきた。    

> OISTを特別な法的しくみのもとに置く必要が生じた最大の理由は、学部の有無ではなく、私学助成の上限を超える財政支援を可能にすることにあった。    

>この特例を実現するために、沖縄振興特別措置法とOIST学園法という特別法が用意され、所管も文部科学省ではなく内閣府沖縄振興局に置かれることになったのである。    

> この財政措置の規模は決して小さくない。    

2020年度の政府補助金は総額203.5億円(大学運営費169.2億円、施設整備費34.3億円)にのぼる。    

> 学長・理事長を外国人が務め、教員の6割以上・学生の8割以上が外国人という構成、終身雇用を前提にしない国際公募中心の人事制度──。    

>こうした設計は、この潤沢な財政的裏付けがあって初めて機能するものであり、通常の私学助成の枠内では再現しようがない。    

> このようにOISTは、制度上は私立大学であるが、その実態は普通の私立大学とは大きく異なる。    

OISTは政府が主導して創り上げた、『公設民営』のいわば異形の大学とでも言うべきものなのだ。    

> この特別な設計から生まれた研究成果は、確かにめざましい。    

>というより、そこには華々しい成果を挙げなければならない必然があったはずだ。    

>それにしても、日本国政府はなぜこのような大学院大学を必要としたのであろうか。    

>ものさしの選び方──Nature Indexというしかけ    

> 2019年のNature Index(質の高い科学雑誌への論文掲載を、著者の貢献度に応じて加重集計する調査)では、著者数で正規化した「規模あたりの順位」──Nature Indexの用語でいうShare(共著者間で貢献度を按分した加重値。論文1本につき最大1.0)を人数で割ったもの──OISTは日本1位、世界9位になった。    

> ところが、同じ2019年の同じ調査で、正規化をかけない単純な論文数──Count(論文に1人でも著者がいれば1とカウントする方式)──だけを見ると、OISTは世界360位まで下がる。    

>「正規化する」という操作が何をしているのかというと、少人数で効率よく成果を出している機関を、実際よりも有利に見せる仕組みだ。    

>教員一人あたりの生産性で見れば確かに優れているが、大学全体としての研究の量で見れば、東京大学どころか地方の総合大学にも及ばない規模でしかない。    

>「世界9位」と「世界360位」。    

>同じ大学、同じ年、同じ調査が、ものさしの選び方ひとつでこれほど違う姿になる。    

>どちらも「嘘」ではない。    

>しかし、どちらか一方だけを選んで発表すれば、それは数字としては正しくても、ものの見方としては「捏造」に近い。    

 

それは序列メンタリティの発想ですね。考えは人によりさまざまですからね。違って当たり前でしょう。   

 

> なぜOISTは、人数で割った指標で高い数字を出せるのか。    

>答えは最初の節で見た設計そのものにある。    

>特別な解決策が、特別である理由    

> 潤沢な予算を少人数の教員(90人程度)に集中して投じ、国際公募で選んだ研究者を注目度の高い分野に配置し、英語を共通語にすることで海外との共同研究を増やす──。    

>これは経営の「工夫」の結果ではなく、大学設置基準というルールの外に出たからこそ、初めて可能になった最適化である。    

> だからこの設計は、そもそも他の大学ではまねできない。    

> 同じ予算総額を教職員や学生の数が桁違いに多い総合大学に配ったら、一人あたりの取り分は薄まり、指標は当然下がる。    

 

そうですね。   

 

>逆に、総合大学の規模のままで同じ指標を得ようとすれば、予算を何十倍にも増やすか、教職員を何分の一かに減らすしかない。    

> しかも総合大学は、大学設置基準や教授会自治というルールの中にとどまっている以上、OISTのような国際公募・任期制中心の人事制度を、そのまま持ち込むこともできない。    

> OISTの成功は、総合大学がまねすべき「経営のコツ」ではない。    

 

そうですね。OISTの成功を取り入れるには大学設置基準の見直しが必要ですね。      

 

>それは、旧文部省が作った大学運営のルールの外側で、科学技術政策を担ってきた別系統の官僚たちが、内閣府という別の管轄を借りて作り上げた、特別な解決策である。    

>総合大学であることをやめない限り、この解決策は再現できない。    

 

総合大学をやめれば解決策が再現できるなら、やめたらよいですね。これは日本人の意思の問題ですね。意思のある所に方法がある。Where there’s a will, there’s a way.  

             

> ではなぜ、この再現不可能な特別な解決策が、いまあらゆる大学に通用する「正解」であるかのように語られ、その考え方と、それを進めてきた人たちが、「国際卓越研究大学」制度というかたちで、普通の大学の内部にまで持ち込まれようとしているのか。    

 

普通の大学の機構の精査が必要ですね。そうすれば、正解が誤解であることがわかるでしょう。    

 

>その道筋を運んだ「人」については、次の節で見ていきたい。    

>運んだ人──設計図はどこを通って伝わったか    

> OISTという特別な解決策が、なぜ他の大学にも通用する「お手本」であるかのように語られるようになったのか。    

>この問いには、制度と制度のあいだを実際に歩いて渡った、ある官僚の経路を見る必要がある。    

> ある中央省庁の幹部は、若手の技官だった時代に大学院大学の設置準備に携わっていた。    

2012年開学のOISTは、ちょうど同時期に構想・準備が進んでいた大学院大学のひとつであり、この経歴だけからOISTへの関与の深さを特定することはできない。    

> ただ、「学部を持たず、大学設置基準の外側で完結する」という統治のかたちを、キャリアの初期に内側から学ぶ機会を得た人物であったことはうかがえる。    

>その後、社会人として大学院に籍を置き、博士号を取得している。    

>国家公務員が現職のまま大学院で学位を取ること自体は、多くの省庁で制度的に後押しされてきた一般的な慣行である。    

> 学位を取った研究ゼミは、東京都内のある研究所で月に一度、大学の専攻と正式につながる形で開かれていた。    

>この人物は学位取得後もこのゼミに顔を出し、OISTについて報告していたという(その場に居合わせた人からの伝聞であり、一次資料による確認はできていないことを明記しておく)。    

> こうした師弟・同窓のネットワークの中で情報が交換され、うまくいった方法がキャリア間で共有され次のキャリアへと運ばれていく回路は、日本の科学技術政策づくりに昔からあるものであり、公の仕事と私的な信頼関係が分かれずに一体化した統治のあり方──これを「家産官僚制」という──の典型的な現れである。    

> あえて推測を述べれば(確認できる事実ではないことを断っておく)、官僚に学位取得の道を開いた側が実際に用意したのは、大学とキャリア官僚とを行き来できる「船」(回路そのもの)にすぎなかったのではないか。    

> その船に何を積み、どこへ運ぶかを決めるのは、船をつくった者ではなく、たまたまその船に乗り合わせた者である。     

>家産官僚制の恐ろしさは、誰かが悪意を持って舵を切ることではなく、そもそも舵を取るべき人間が、最初から誰も乗っていなかったことにあるのかもしれない。     

> この人物は近年、大学の研究力強化政策に関わる重要な役職に就いた。    

>大学院大学という統治のかたちをキャリアの出発点で学び、私的なゼミでの報告を重ねた官僚が、20年余りを経て同じモデルを総合大学へ広げる制度設計に関わる立場になる──。    

>これはキャリアの緩やかなつながりが生む、ありふれた出来事である。    

>しかし、その緩やかさゆえに、外からは確かめようも反論しようもない。    

>表向きの制度文書には、この道筋のどのかけらも書かれていない。    

> この経路が、なぜ広く問題にされないままなのか。    

>ここで参考にしたいのは、オランダ人ジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレンが指摘した、日本の権力の見えにくさである。(中編に続く)    

>澤田 哲生(さわだ・てつお)    

>エネルギーサイエンティスト    

>兵庫県立柏原高校から京都大学理学部物理学科卒業後、三菱総合研究所、独カールスルーエ研究所客員研究員を経て東京工業大学(現・東京科学大学)助教(20223月定年)。    

>現在工学院大学非常勤講師。    

>専門は原子核工学・原子力安全。    

2010年度より高レベル放射性廃棄物処分をめぐる『中学生サミット』を毎年開催。    

>著書は『やってはいけない原発ゼロ』ほか。    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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