事実と非事実(嘘) が混然一体となって特亜三国人の激論が始まる。この混乱から、逃れるすべはない。 英語の文法には、時制 (tense) というものがあって、目の前 (現在)のことと、そうでない (過去・未来) 内容が区別されて表わされる。目の前にないことは '考え' であり非現実の内容であるから、過去時制か未来時制の文章になる。だから、現実と非現実の区別は英語の学習を進めればおのずと習得できる。 日本語の話し方は、'てにをは'の合わない話をしてはいけない。といった程度のものである。日本語は、小言・片言・独り言の世界を作る。単語の世界はナウな感じがする。歌詠みは短慮である。 英語の世界は奥が深い。時制があれば、*'時制の一致' があり、過去・現在・未来のそれぞれの世界の内容を独立に文章として展開し、比較することがすることができる。哲学は深遠である。 英文和訳も、和文英訳も難しい。 *時制の一致: Sequence of tenses (主節の動詞が過去形であれば、従節の動詞の動詞も過去形または過去完了形になるという規則) 意思を示せば、当時者・関係者になる。示さなければ、傍観者にとどまる。日本人には意思がない。我が国は、世界の中にあって、世界に属していない。 意思を示せば、責任を感じる。加害者意識 (罪の意識)にさいなまれることもある。反省もする。贖罪もする。人の信頼を取り戻すこともできる。 意思がなければ、責任もない。'国のため、、'、'お国のためだ' と言いながら、国がひっくり返った時にも、責任者は出なかった。とかく、この世は無責任。それが恨めしい。'お互い様だ' ばかりの言い訳では、国際社会は通らない。 意思は未来時制の文章内容である。日本語には、未来時制はない。日本人には意思がない。 過去の出来事は、過去時制の文章で語られなくてはならない。日本語には、過去時制が無い。 過去時制が無いと、過去の内容を文章にすることができない。すると、文中の矛盾を指摘できないし、その矛盾を取り除くこともできない。だから、過不足ない過去の世界を展開することなく、その想いは幻となる。日本人は歴史認識の問題を抱えることになる。矛盾のない過去の世界を展開できれば、偉大な歴史家が出現する。 言語に時制が無ければ、過去・現在・未来の世界観はなく、英米人が何を根拠にして非現実の内容をそれほどに力説できるのか理解できない。時制のない言語をもってしては、非現実の内容は、すなわち '嘘' としか考えられない。だから、信頼するには当たらない。英米人の考え方では、内容に矛盾がなければ、現実であろうがなかろうが、それは一つの考えである。ここのところが彼らの学問の基礎になっているのだが、あらかたの日本人にとって、これは想像を絶する事実である。 未来の内容は、未来時制の文章として語られる必要がある。現在に身を置いて、未来の内容を 'だろう、、'、'だろう、、、'と推測に推測を重ねるのでは、結論を断言することはできない。その内容は、不確かなこととして夢のごとく消え去る。消えないものは妄想になる。 英米人の夢は、未来時制に文章内容で、実現の可能性を帯びている。希望の源になっている。日本人の夢は見ることはできても触れることにできなもので、実現の可能性は甚だ低い。 夢・幻の日本人の世は、感傷の世界である。前に進むことも、後ろに戻ることも想定にない。ただひたすらに天下の太平を願うばかりである。'We can change!' という発言には説得力が無い。来たるべき世界 (非現実)の内容を確実なものとして発想できない。 日本人が英語の学習に力を入れることには意義がある。時制を活用する考え方を獲得できるからである。さすれば、我が国も、世界に属する国になる。 過去の感傷にとらわれていても、世界に対する説得力は無い。 過去の内容を学び、未来の内容を世界に提案すれば、我が国人も有能な指導者となって人類の進歩に貢献できる。 . |