2019年05月19日(日) 

 

 

>019年4月8日、原発メーカーである日立製作所の会長で経団連会長でもある中西宏明氏が、原発の再稼働や新増設を提言する発言を行いました。 >その提言では原発の再稼働が遅れていることが問題視され、そのために電力の安定供給に疑問が生じコストも高くなっていること、化石燃料を使う火力発電への依存度が現状で8割を超え環境への負荷が予想されること、再生可能エネルギーについては送電網の整備が遅れていることなどが指摘されました。

 

関係者の怠慢が示されたのですか。

 

> 反原発を主張する動きについては、安全対策を尽くしているのに地元の自治体の理解がえられないといった非難を行い、反原発を掲げる団体からの公開討論の申し込みについては、「感情的な反対をする方と議論しても意味がない」とそれを断ったことが伝えられています。

 

説得力が足りないのですね。

 

> 正直、その中西会長の言葉を聞いた時には「福島での事故についての責任をどう考えているのか」と私が感情的な反発を覚えてしまったことを白状しておきます。

 

それは、太平洋戦争での敗戦についての責任のようなものですね。

 

>そもそも、東京電力福島第一原発の事故についての検証が終わってないのに、長く原発推進の立場にあった当事者が日本経済における重要な地位を占め続けていること、原発メーカーの当事者としての立場からの発言をその肩書きで行うことには、違和感を覚えます。

 

事故後も当事者の権威の失墜は無かったのですね。兎角、この世は無責任。

 

>それと同時に、一部の反原発運動にかかわる方の主張が感情的で、「議論しても意味がない」と感じさせてしまう点については共感を覚え、自分の心が混乱をしているのを感じました。

 

歌詠みになるのでしょうね。それは、わが国の伝統ですから。

 

> 多くの人が「面倒くさい」と感じて、日本の原発、そしてこれからのエネルギーをどうするのかを考えることを諦めてしまっているかのようです。

 

そうですね。思考停止ですね。無哲学・能天気の日本人の特性でしょうね。’我々は、何処に行くのか’ を考えられない。

 

>その結果、2011年の事故が起きて8年以上の月日が経つのに、本格的な議論は進んでいません。

 

日本人には、議論は難しいでしょうね。ご唱和の会ならできると思いますが。

 

> 私はこの現状に強い危機感を覚えます。

 

そうですね。思考停止による危機ですね。

 

>原発推進派と反対派が声高に自分たちの主張を述べるだけで、それらが噛み合った議論になりません。

 

全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。

矛盾を含んでいない文章は、全て正しい考えを表している。だから、正解は一つではない。考えは、人それぞれである。だから、正解はいくらでもある。

矛盾を含んだ文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えを表すものになる。だから、対話・議論は、正しい考えを得るための役に立つ。

 

>いかに相手の主張を潰すかに夢中になっているように思います。

 

手段 (潰す) の目的化が起こっていては、建設的な話し合いができませんね。

 

> 本来は同じ国に暮らし、将来を一緒に作っていかねばならない国民同士のはずです。>それなのに、未来に向けたビジョンを共有しながらも、それぞれの立場の違いを認めながら、「日本の良い将来を作るためにどのようなエネルギー政策を選択するべきか」という主題を離れずに議論を続けることが全くできていません。

 

そうですね。無哲学・能天気な国民にあっては、’我々はどこから来たか’、’我々は何者であるか’、’我々はどこに行くのか’ などの哲学的命題は、想定外になっているでしょうね。

 

>すぐに目の前の議論での勝ち負けに夢中になってしまい、その議論がどこを目指すべきかということを忘れてしまいます。

 

そうですね。未来社会の探求が目的にはならず、そのための議論 (手段) が目的化していますね。

 

> 中西会長の言葉で共感するのは、感情的な発言に終始するのは望ましくないという点です。

 

日本人は議論が出来ないのだから、感情的な発言に終始せざるを得ませんね。歌詠みの会合のようなものになりますね。

 

>それならば、中西会長ご自身も、反原発の立場の方々への感情的な反発を煽るのではなく、原発を再稼働することが望ましいという根拠を、数字を用いて示していただきたいと考えます。> 東京電力福島第一原子力発電所事故でどれほどの損害が生じたのか、それが明確にされなければ議論を進めることができません。

 

そうですね。数字がなければ、議論はできませんね。

山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。

「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。

 

>もちろん、事故で失われたものの中には、お金に換算できないものも多く含まれています。>それでもやはり、経済の専門家であり日本経済における主導的な立場から再稼働について発言されるのならば、事故によって生じたコストについての評価を示していただきたいのです。

 

コストの評価を示すべしですね。

 

> 私は東京都出身ですが、2012年4月から福島県南相馬市に暮らし、原発事故の影響についての見聞を広める機会がありました。> 地域のコミュニティが蓄積していた富がどれほど失われたのか、想像もつかないほどです。> 除染や廃炉や賠償にこれまでどれくらいの費用が生じてしまい、この先もどの程度の予算を計上する必要があるのか、明確にしないままでは国の将来が危ういと感じます。>コストについての妥当性のある数字が示された上で、原発再稼働についての感情的ではない議論が可能になるでしょう。

 

妥当性のある数字が必要ですね。

 

>それを欠いたまま議論するのは、放射線の健康被害についての、実際の被ばく「量(数字)」についての考慮が行われていない議論と一緒で、感情的で無意味です。

 

そうですね。歌詠みは、大和民族の特性ですね。

 

>HPに続く

 

 

 


閲覧数294 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/05/19 10:39
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