>◆戦前の神国日本 >リンク >>明治維新により天皇が政権を奪還すると、国家神道が国教とされ、国家神道を支える理念的思想となるとともに、欧化・近代化路線に対抗する国粋主義と結びついた。
そうですね。国粋主義 (超国家主義) は、自己慶賀への道ですね。相手を侮ることにもつながりますね。
>>日本の帝国主義・軍国主義路線の膨張、植民地の拡大とともに、国内外の民衆を抑圧する思想へと転化して行った。
無哲学・能天気の民が受け売りするのを防止する方策でしょうね。為政者は、民があくまでも序列人間であることを強く望んでいますね。
>> 日露戦争勝利以後、日中戦争・太平洋戦争でその動きは最高潮に達し、「神州不滅」の主張の元に玉砕・神風特攻隊・本土決戦論などの、“臣民全て滅びようとも天皇家だけは厳然と残らねば・残されねばならない、そして日本が勝つのだ”という思想が横行し、多くの生命が失われた。
そうですね。 ‘一将功成りて、万骨枯る’ ということですね。 ‘彼を知り己を知れば、百戦危うからず’ ですね。 (孫子) '敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである' (昭和天皇)
>>大戦末期には、敗北が目に見えても、民衆の中には“いずれ神風が吹いて、敵艦隊をまとめて沈めてくれる”と本気で考えていた者がいたという。
そうですね。日本人は、現実直視 (実験・観察) ができないから、空気 (気分・雰囲気) に弱いですね。 山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。 「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。
>◆国体の本義は、戦争の指導原理に利用 >リンク >>ABCD包囲陣によって「窮鼠猫をかむ」の状況において無謀な日米戦争(1941年12月8日から1945年8月15日)を戦うにあたっても、日本は、天壌無窮の神勅により立てられた天皇を戴く神国だから負けるはずがない。
信心のようなものですね。’他力本願・神頼み’ ですか。
>>必ず神風が吹き、日本が勝利すると国民を鼓舞する指導原理として「国体の本義」が利用され、神州不滅が喧伝さることとなる。
都合の良い話ばかりが喧伝されましたね。
>>この自己中心的で偏狭なナショナリズムは、日本の敗北によって否定された。
そうですね。非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。話が分かる為には、その文章内容を文法に従って理解しなくてはならない。これは、骨の折れる作業である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で事を済ませている。ところが、理解と忖度は、似ても似つかぬ代物なのである。それを日本人は知らない。これは、実は、深刻な問題なのである。 理解は、発言者の内容に関する事柄である。忖度は、聞き手の勝手な解釈である。だから、聞き手の姿勢は、現実直視 (実験・観察) になっていない。忖度に関して発言者には、何の責任もない。議論にもならない。白昼夢ということか。 全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。矛盾のない文章は、すべて正しい考えを示している。考え方は、人により様々である。だから、正解は、一つではない。多数ある。 矛盾をむくむ文章も、その矛盾を除去すれば正しい考えになる。矛盾の除去には、対話・議論が役に立ちます。
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