>戦前の家父長制下では、家長は黙ってそこにいるだけで、役割を果たすことができた。
わが国は、伝統的な序列制度の国ですからね。
>たとえ中身がすかすかでも、黙ってそこにいて、定型的に家父長的なことを言っていれば、それなりの威厳があった。
そうですね。床の間の置物か、張子の虎のようなものですね。
>ところが、民主的な家庭ではもう家長の威信という制度的な支えがありません。>父親は正味の人間的な力によって家族を取りまとめ、その敬意を集めなければならない。
各人に、哲学は必要である。Everyone needs a philosophy.
>でも、手持ちの人間的実力だけで家族の敬意を集めることができるような父親なんか、実はほとんど存在しなかった。
わが国は、伝統的な無哲学・能天気の国ですからね。
>家父長制の「鎧」を剥ぎ取られて、剥き出しになった日本の父親はあまりに幼児的で、あまりに非力だったことがわかった。
無哲学・能天気な日本人は、子供のようなものですからね。 ‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)
> 同じことは学校でも起きました。 >上に立って威張っていた教師たちの「正味の人間的実力」を測ったら、人の上に立つほどの実力がないということがたちまち暴露されてしまった。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ところが、日本人には、意思がない。仕方がないから、無為無策でいる。だから、指導力がない。 意思 (will) は、未来時制の文章内容である。だが、日本語文法には、時制 (tense) というものがない。だから、日本語の脳裏には未来時制は存在せず、日本人には意思がない。
>それが60年代末からの全国学園紛争の文明史的な意味だったと僕は思います。
あれは、無哲学・能天気の嵐のようなものでしたね。
>学生たちから「あなたたちは教壇で偉そうに説教を垂れているけれど、個人としてどれほどの人間なのか? 平場で勝負しようじゃないか」と言われた大学教師のほとんどが、腰砕けになってしまった。>象牙の塔の権威がそれでがらがらと崩れてしまった。
これは、序列権威の崩壊ですね。それまでは、日本人は、序列を見れば則ち権威であると盲信していました。
> 家庭と学校を民主化しようとした四半世紀の努力の果てに、僕たちは民主主義を徹底させてみたら、民主主義的な組織はもたないということを暴露してしまった。
それはそうでしょうね。無哲学・能天気では、民主的な組織はもたないですね。後は、衆愚政治しか、残っていない。
>そうやって「戦後民主主義の申し子」であった僕たちの世代が戦後民主主義の息の根を止めてしまった。
残念なことですね。これが、我々日本人の現実直視の動機になると良いのですがね。 非現実 (考え) の内容は、頭の中にある。それは、見ることができない。ただの話である。その話が分かる為には、文法に従って文章内容を理解しなければならない。だが、日本人は、この作業をしていない。だから、無哲学・能天気のままでいる。 全ての考えは、文章になる。文章にならないものは、考えではない。 非現実 (考え) の内容は、時制 (tense) のある文章になる。時制のある文章内容は、それぞれに独立した非現実の三世界 (過去・現在・未来) の内容を表すことができる。初めはどの世界も白紙の状態であるが、それは各人にとって気になることである。だから、各人が白紙の内容を自分自身で埋めて行く。これが、世界観 (world view) である。世界観を基にして現実の内容を批判すれば、その人は批判精神を表したことになる。英語には、時制がある。英米人には、世界観 (哲学) がある。だから、批判精神もある。日本人はその逆で、時制もなく、世界観もなく、批判精神もない。だから、つかみどころのない人間になっている。これでは、尊敬されるはずもない。’民、信無くば立たず’ である。 我々日本人は、日本語と英語の両言語を良く学び、時制の大切さを十分に理解しなくてはならない。そして、これを応用すれば、我々は未来社会の内容を明らかにすることも可能になり、その建設に確たる意思を示すことも可能になります。我々の進むべき道の内容に多くの賛同者を得て人類の進歩に大きな貢献をすることも可能になります。 英米人は、日本語で話をしていても、日本語の閉塞感に襲われることがありません。日本語以外にも、考え方があるからです。ですから、自己主張ができます。我々も、彼らを見習うべきでしょうね。
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