2019年12月09日(月) 

 

現実の世界の内容は、頭の外にある。それは見ることができる。見ることのできる内容は、本当のことである。できない内容は嘘である。そこには、唯一の正解がある。日本人は、’嘘・本当’ の世界に住んでいる。

非現実 (考え) の世界の内容は、頭の中にある。それは見ることができない。ただの話である。全ての考えは文章になる。文章にならないものは、考えではない。

矛盾を含んでいない文章は、全て正しい考えを示している。考えは、人様々である。だから、正解は一つではない。幾らでもある。

矛盾を含んでいる文章も、その矛盾を取り除けば正しい考えの内容になる。この目的のために対話・議論が役に立つ。だから、対話・議論を盛んにしよう。

 

 <日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。

私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)

 

わが国では、責任という言葉はあっても、意思の概念が含まれていない。’自分の分担として、それだけはしなければならない任務・負担’ といった具合になっている。‘意思決定によりある事に対処しうる状態であって、もし対処に失敗すると非難される’ といった英米人の責任に対する定義とは異なったものになっている。

日本人には意思がない。意思は、未来時制の文章内容である。ところが、日本語文法には時制 (tense) というものがない。だから日本語には意思の内容を表す構文は無く、日本人には意思がない。意思の抜けている状態での責任は義務ばかりで、牛馬の苦役のようなものになる。意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there’s a will, there’s a way. ‘意思の無い人間には、責任がない’ということでなければ真っ当ではない。だから、意思の無い日本人の社会は、’兎角、この世は無責任’の状態になっている。

 

肥田喜左衛門の著した <下田の歴史と史跡> には、責任に関する下のような事柄が記されています。

徳川5代将軍の治世、佐土原藩の御手船・日向丸は、江戸城西本丸の普請用として献上の栂 (つが) 材を積んで江戸に向かった。遠州灘で台風のため遭難、家臣の宰領達は自ら責を負って船と船員達を助けようと決意し、やむをえず御用材を海に投げ捨て、危うく船は転覆を免れ、下田港に漂着した。島津家の宰領河越太兵衛、河越久兵衛、成田小左衛は荷打ちの責を負い切腹する。これを知って船頭の権三郎も追腹を切り、ついで乗員の一同も、生きて帰るわけにはいかないと全員腹をかき切って果てた。この中には僅か15歳の見習い乗子も加わっている。鮮血に染まった真紅の遺体がつぎつぎに陸揚げされたときは、町の人々も顔色を失ったという。16人の遺体は、下田奉行所によって大安寺裏山で火葬され、同寺に手厚く葬られた。遺族の人たちにはこの切腹に免じて咎めはなかったが、切腹した乗組員の死後の帰葬は許されなかった。(引用終り) 

 

欧米では意思決定権を持たせるために指導者を選ぶのだが、わが国のような意思の無い人間ばかりの社会ではそれがうまくゆかない。人間序列はできても意思が存在しない。責任の所在が明らかではない。この国がひっくり返った時にも、その責任者は出なかった。

フランク・ギブニー (Frank Gibney) 氏の 著書 <人は城・人は石垣> には次のような事が書かれています。

 ペリー提督は、日本人はアメリカ人のように敏速に行動しないと注意された。それは、このように説明された。数人の日本人が黒船を訪れたいと思って集まったとする。一人が「いい日だな」という。これに二人目が「なんという気持ちのいい日だ」と調子を合わせる。三人目が「波も見えないぞ」という。最後に四人目が「船に行ってみようじゃないか」と提案する。  ニューヨーク・デイリー・ニューズ (1854年6月13日) (引用終り)

自然発火と自然鎮火の成り行きを眺めているようなものである。意思の存在しない世界とはかくあるべきものなのか。

 

 カレル・ヴァン・ウォルフレン (Karel van Wolferen) は、<日本/権力構造の謎> (The Enigma of Japanese Power) の<”ジャパン・プロブレム”>の中で下記の段落のように述べています。

・、、、、、日本の社会でいう “現実” (リアリティ) とは、客観的に観察した結果としての実際の事実というより、心情的なイメージに合わせて構築された、そうあるべき “リアリィティ” だからである。そしていうまでもなく、望ましいと想定されるイメージは、そのときその人の属するグループの利益と一致することが多い。 、、、、、 

 

それは、現実 (リアリティ) と非現実 (そうあるべきリアリティ) の混乱ですね。日本語に、非現実の内容は構文上に存在しません。ですから、何でも彼でもリアリティ (現実) として語られます。そして、この ‘おしゃべり人間’ の矛盾は解けません。

 

・西洋では、現実はそうやすやすと管理されたり、意のままに作り変えられたり、相談で決められたりするものとは、考えられていない。つまり、こうあるべきだという任意の考えによって左右されるものとは考えられていない。

 

そうですね。西洋では現実と非現実 (考え) の内容は全く別物ですね。頭の外と中の違いでしょうね。

 

・事実、西洋の哲学または西洋の常識の基礎は、人間にはつきものの自己欺瞞をおさえるには、妄想や幻想を入り込ませないようつねづねよく注意することだと教えている。

 

そうですね。西洋諸国は、妄想・空想・幻想の大国にはなれそうにありませんね。

 

・ギリシャ文明以来、西洋の知の発達の歴史を貫いてつねに強調されてきた戒めが一つあるとすれば、それは、「矛盾を育むなかれ」ということである。この戒めは、論理、数学、科学の根本法則である。(引用終り)

 

そうですね。矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを示しています。ですから、学問も可能になりますね。

 

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閲覧数93 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2019/12/09 15:09
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