2021年06月24日(木) 

 

 

>香港の新聞「リンゴ日報」が、[2021年6月] 24日の新聞を最後に発行を停止すると発表した。>政府の弾圧により、営業の停止を余儀なくされたとしている。>香港で民主勢力の象徴とされた新聞の発行停止だが、中国にはどんな思惑があるのだろうか。> 風間晋解説委員に話を聞く。

>風間解説委員「愛国者と認定されなければ、選挙に出られなくしたのと同じで、愛国メディアでなければ、もはや香港に居場所はないということを見せ付けました。>ジャーナリスト個人の自由と民主主義への信念や専制政治への抵抗をくじくことは時間が掛かるので、会社の銀行口座を凍結し、早々と発行停止に追い込みました。>6月末の香港国家安全維持法施行1年と7月1日の中国共産党成立100周年を見据えてのことと思います。>特に100周年では、共産党が中華民族の偉大な復興の実現を進めてきた唯一無二の存在であることをアピールすることでしょう。>古今東西、為政者は、自らに都合のよい歴史を書いてきましたが、香港などについていったいどう描くのか、しっかり見極めなければならないと思います」

 

しっかり見極めた暁には香港にはどのようなことが起こるのでしょうかね。   

 

>香港では民主勢力の象徴とされてきただけに、市民にもそしてメディア業界全体にも大きな衝撃と危機感を与えそう。

 

メディア業界は市民と世界にいかなる行動を訴えかけるのですかね。  

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。進歩が期待できる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' ということになり現実肯定主義の中に埋没せざるを得ない。日本人の比較はこれである。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

非現実の内容は人様々である。非現実の内容がなければあるのは現実だけで、その正解は一つである。日本人がともすれば異口同音の内容を語るのはこのためである。      

わが国のマスコミも現実の内容をただ垂れ流す。現実の正解はただ一つであるから、どんぐりの背比べで個性がない。

 

日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。

意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。能動がなくて受動ばかりの生活を送っている。戦時中は玉砕するまで戦い抜いた日本兵であった。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。

 ' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)

日本人には意思がない。意思の無い人には責任がない。ちょうど死刑執行人のようなものである。人は死んでも彼らは殺人罪に問われない。彼らには殺意という意思がないからである。

意思の無い世界には、西洋流の責任も無い。イザヤ・ベンダサン=山本七平訳の<日本教について>の中で、日本語の責任について述べられています。

‘、、、、、「責任」という日本語には、「応答の義務を負う=責任(レスポンシビリティ)」という意味は全くないのみならず、「私の責任だ」といえば逆に「応答の義務がなくなる」のです。、、、、’ (引用終り)

‘兎角、この世は無責任’ という事か。

自己の意思を表せば当事者・関係者になる。表さなければ傍観者にとどまる。意思表示の無い日本人は常に傍観者にとどまっていて、孤高の人になっている。孤立無援になりやすい。わが国は、世界の中にあって、世界に属していない蚊帳の外。  

 

 

 

 

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閲覧数669 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2021/06/24 01:21
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