2022年01月05日(水) 

 

>373745        童話が「いろんな角度で考える力」を育む理由   >大川剛史 ( 36 東京都 会社員 )     22/01/05 AM05 【印刷用へ】

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>きっかけは加藤浩次さんの言葉だった  >放送作家になって20年以上経ちますが、最近、番組づくりで意識しているのは、物事を一方向から見て「こうだ!」と決めつけないことです。 >そのきかっけは、昔からお付き合いのある極楽とんぼの加藤浩次さんの言葉でした。 >あるとき、ぼくは加藤さんに、「朝の情報番組でむずかしいことはなんですか?」と聞いたのです。>すると加藤さんは、なにかニュースを伝えるときに、いろんな人の立場になって話すことがむずかしいと答え、そして、すべてのケースに当てはまるわけではないけれど、「正義の反対は、相手の正義」なのだと言いました。 >しびれました。 >まさに、今の時代に必要な考え方です。

 

人々の考えは様々ですからね。    

 

>この言葉をどうにかしてみんなに伝えたい、そう考えたとき、ぼくの頭に真っ先に浮かんだのが、童話を教科書にすることでした。 

 

そうですね。レジャーでする猟師の狙い撃ちは、獲物たちにとっては生死の問題ですからね。  

 

>『3匹の子ブタ』『さるかに合戦』『鶴の恩返し』『泣いた赤鬼』……。 >童話には、つねに正しい教訓がありますよね? >わかりやすい悪者が出てきて、最後には必ずやっつけられて、めでたしめでたし。 >でも、本当に“めでたしめでたし”でいいのでしょうか?  

 

そうですね。赤鬼は青鬼を失って、本当に幸せになれたのでしょうか。   

 

>人にはそれぞれ立場や考え方によってちがう正義があり、誰もが自分を正義だと信じています。 >大切なのは、自分ではない誰かの立場で考えること。

 

それは神様の立場ですか。   

 

>その「物事をいろんな角度から考える力」が、想像力をのばし、違う考え方を理解できるようになり、思いやりの心を育みます。  

 

戦いに勝利した人々は歓喜に酔い、敗れた人々は悲しみに打ちひしがれますね。    

 

>それって、これからの世の中を生きるのに、いちばん大切な力なのでは? とぼくは思いました。 >たとえば『3匹の子ブタ』には、オオカミの都合や正義が、いっさい話の中に出てきません。 >でも、オオカミだって、生きなくてはなりません。 >ひょっとしたら、群れにお腹を空かせた子どもが待っているのかもしれない。 >だからこそ、エントツから家に入ろうなんて無茶なことを考えたのかもしれません。

(略)  

>こうして考えると、子ブタ側の視点だけでオオカミを悪だと決めつけるのは、今の時代にはとても危険な考え方ではないでしょうか。>自分の身を守ろうとした子ブタも正義、でも、オオカミにもまた、オオカミの正義があったはずです。 >こうして、『3匹の子ブタ』をちがう視点で読み解くと、正義の反対は悪ではなく、「もう1つの正義」だと学べる話になります。  

 

正義と正義の戦いですね。   

 

>その視点を取り入れることで、誰かと意見が違ったときに、なぜそう考えるのか、どうしてそんな行動をとるのかを想像することができるようになる。 >ぼくはそう思います。 

 

そうですね。我々は思慮が深くなりますね。  

 

>『裸の王様』は“空気”の持つおそろしさを問う話  >『裸の王様』は、“バカには見えない服”を「見える」と言ってしまった王様が、最後に裸でパレードをする話です。 >でも、王様が見えない服を見えると言ったのは、「バカだと思われたくなかった」からだけでしょうか? >ぼくは、そこにもう1つ理由があったのではないかと思います。>それは、“空気”です。>最初にその服が「見える」と言ったのは大臣でした。>そして、その言葉につられてほかの家来たちもみんな「見える」と口にしました。

 

他人と同じであるならば、何も恥ずかしいことはありませんね。   

 

(略)

>ぼくは、そこには同調圧力が働いていたのではないかと思います。

 

我々には現実直視が大切ですね。   

 

>「みんなが見えると言っているのだから、見えるのだろう」「ここは見えると言っておこう」 >そんなふうに、つい大勢の意見に合わせて、空気を読んでしまうことって、現代でもよくありますよね?

 

ご唱和の世界ですね。付和雷同は危険ですね。       

 

>『裸の王様』は、視点を変えると、権力を持った王様でさえ逆らえない、“空気”のおそろしさの話になります。  

 

迷信のようなものですかね。    

 

>空気を読むことは必要なスキルでもありますが、あまり人の意見に同調しすぎてばかりいると、自分で何も決められなくなってしまう。 

 

そうですね。言語は伝達の手段であるばかりでなく、思考の重要な手段でもあります。ですから我々の考えの疎かな所は日本語のせいであることもあります。   

非現実 (考え) の内容は、英語の時制のある文章により表される。非現実の内容はそれぞれに独立した三世界 (過去・現在・未来) の内容として表される。その内容は世界観と言われている。これらの三世界は時制により構文が異なるので、同次元で語ることができない。それで独立した三世界になっている。この規則を the sequence of tenses (時制の一致) と呼ぶ。日本人の初学者が英論文を書くときに難渋する規則である。 

世界観は、人生の始まりにおいては白紙の状態である。人生経験を積むにしたがって、各人がその内容を自分自身で埋めて行く。自己の 'あるべき姿' (things as they should be) もこの中にある。来るべき世界の内容を語ることは、時代を先取りすることである。

自己のその内容 (非現実) を基準にとって現実 (things as they are) の内容を批判 (縦並びの比較) すれば、批判精神 (critical thinking) の持ち主になれる。批判精神のない人の文章は、ただ現実の内容の垂れ流しになる。全ての事柄は他人事になる。これは子供のようなものである。日本人も英米人も子供の時には非現実 (考え) の内容というものがない。だから ‘話を告げる’ (to tell a story) ということは、’作り話をする’ とか ‘嘘を吐く’ という風に受け取られて悪い子供とされている。この判定だけがわが国では一生涯続く。

日本語の文法には時制がない。だから、日本人には世界観がない。そして、日本人には批判精神がない。残念ながらマッカーサ元帥の '日本人12歳説' を否定できる人はいない。  

意見は比較の問題である。現実の内容と非現実の内容があれば批判精神が発揮できる。英米人の意見はこれである。これは縦並びの比較ということができる。建設的である。進歩が期待できる。希望が持てる。現実の内容だけであれば、その比較は '現実' 対 '現実' の上下判断 (横並びの比較) になり、'どっちもどっちだ' がある。無力感に苛まれる。この種の比較は復讐に復讐を重ねる民族同士の争いの原動力にもなっていて進歩が期待できない。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

>大切なのは、空気を読むべきときと、自分の意見をつらぬくとき、そのタイミングを見極める力なのだと、この童話から学ぶことができます。 >『ウサギとカメ』のウサギは、ゴール前で油断して寝てしまったばかりに、コツコツ歩き続けたカメに追い抜かれてしまいました。 >では、もしウサギが寝なかったら? >カメが勝ったのは奇跡。 

 

そうですね。彼を知り己を知れば百戦あやうからず。   

 

>ウサギが寝るというラッキーが起こり、ぐうぜん勝っただけです。  

 

そうですね。日本海海戦のようなものか。    

 

>もともと身体能力に圧倒的な差があるウサギに対して、カメは本当に無謀な勝負を挑んでしまいました。

 

そうですね。太平洋戦争のようなものか。   

 

>問題は、ウサギに「のろまなカメ」とバカにされたとき、カメが挑発に乗って勝負を挑んでしまったことです。 >そんなときは冷静になり、「足は遅いけど、泳ぐのは得意さ」と返したり、あるいは「人をバカにするヤツのことなんか真に受けなくていい」と受け流したりしてもいいでしょう。  

 

それは利口に人の態度ですね。’人は人、自分は自分’ ですね。   

'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)  

 

>自分ができないことをバカにされるなんて経験は、人生で誰にでも起きること。>『ウサギとカメ』の話からは、そのたびにカッとなっていたら、取り返しのつかない大惨事に巻き込まれてしまうという教訓を得ることができないでしょうか。

 

そうですね。 つまらない挑発に無載らないことですね。軽挙妄動は良くないですね。        

 

>大切なのは、自分だけの読み解きを見つけること  >こんなふうに、誰もが知っている童話を別の角度から見てみると、まったくちがうストーリーが見えてきます。 >そこで覚えた驚きや気づきが、「物事をいろんな角度から考える力」を育てます。  

 

そうですね。ああ言えばこう言うと言うことになりますね。   

 

>この力は、とくに今の時代は、大人にこそ必要なものだとぼくは思います。  

 

そうですね。子供の話には罪がないですね。

現実 (事実) は見ればわかる。現実の正解は一つしかない。非現実 (考え) の内容はみることができない。だが文章になる。文章にならないものは考えではない。

矛盾を含まない文章は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy.  そうでなければ我々は、つかみどころのない人間になる。   

大学などの高等教育機関で勉学に励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。

私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。       

政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。  

我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。   

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。

孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り)

我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。      

 

>年末年始の休みは、ぜひ、親子でよく知る童話を読み直してみてはいかがでしょうか。 >「こんなふうにも考えられない?」と、お互いの「ちょっとちがう読み解き」を披露し合えば、新年に向けて、頭と心をリセットするいい機会になるはずです!    

 

人人により考えは様ざまですからね。    

我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。 

『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)   

我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。  

国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語のかな漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。      

 

 

 

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閲覧数189 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2022/01/05 16:48
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