>すぐ空気に支配される日本人の「いいかげんさ」こそ国の底力である >『「空気」の研究』(山本七平)で読み解く >秋山進:プリンシプル・コンサルティング・グループ株式会社 代表取締役 >著者の新規記事を通知 >キャリア・スキル >名著で読み解く新常態 >特集・連載の更新を通知 >2020.11.19 3:50 > さて、『「空気」の研究』では、「臨在感」や「臨在感的な把握」なるものが主題の一つとなっている。 >「臨在感の支配により人間が言論・行動等を規定される第一歩は、対象の臨在感的な把握にはじまり、(中略)感情移入を絶対化して、これを感情移入だと考えない状態にならねばならない。」
これは我が民族の危険な状態ではないでしょうか。 山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。 「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。
> 臨在感というのは山本氏オリジナルの用語なので、その定義は割愛するが、山本氏が言う臨在感的な把握は、たとえば一人の人間のなかに、「善の部分と悪の部分が対立しながらどちらもある」と認識するのではなく、自分のなかにある善悪の規準で、他人を短絡的に善玉・悪玉に分けてしまい、ある人間には「自分のなかにある善の概念」を乗り移らせて「善」と把握し、別の人間には「自分のなかにある悪の概念」をすべて投入して「悪」として把握するということだと言う。
極めて状況的ですね。
> ある事件や現象があったとして、なにかのきっかけでそれに多くの人が感情移入し、「そこにマスコミがとびつき、大きな渦となり誇大に宣伝され、世論となる」。 >勝手に感情移入してヒーローに仕立て上げたかと思うと、同一人物のなかに悪を発見して、自己の悪をそこに投影させ、一転、全面的な悪の象徴として、てのひらを返したように、たたき落とすのである。
我が国は無哲学・能天気の国ですからね。気分・雰囲気が支配していますね。
> なぜ、そんなことになるのか。 >山本氏は一神教の話をする。 >多神教ゆえに「空気」が絶対になる日本 >「一神教の世界では「絶対」といえる対象は一神だけだから、他のすべては徹底的に相対化され、すべては、対立概念で把握しなければ罪なのである。」 > キリスト教やイスラム教のような一神教世界には、そもそも絶対的なものなど神以外にはない。 >民主主義であろうと、憲法であろうと、何であろうと、である。
そうですね。
>一方、日本のような森羅万象に神を見いだす多神教にはそのような基軸になるものがないから、何ものかが選ばれて、それがその場や社会を支配する「空気」となって絶対性を持つことがある。 >しかもそれは次々と移ろう。
そうですね。現実は千変万化していますね。 日本人は自然の中にアニマルと共に生きていますね。
>「民主(筆者注:民主主義のこと)といえばこれは絶対で、しかも日本のそれは世界最高の別格であらねばならなくなる。
チャーチルの名言: 民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。
>憲法も同じであり、あらゆる法は常に欠陥を持つから、その運営において絶えず改正を必要する存在であってはならず、戦前の天皇制が、他国の立憲君主制とは全く違う金甌無欠の体制であったという主張と同様、完全無欠であらねばならないのである。」
難しい話ですね。絶えず改正するのは進歩の可能性を示すものですね。
> これは、戦後、軍国主義から一転、民主主義や憲法が絶対視されたことを指している。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
>山本氏は、このようにあらゆるものを絶対的なものとして見ることを警戒する。
そうですね。人の考えは、みなそれぞれですからね。
>一方で、山本氏は、日本の絶対化の“いいかげんさ”も指摘する。
せっかくのご唱和の世界もひっくり返ることがありますからね。一億一心もいいかげんですね。
>「この世界には原則的にいえば相対化はない。>ただ絶対化の対象が無数にあり、従って、ある対象を臨在感的に把握しても、その対象が次から次へと変わりうるから、絶対的対象が時間的経過によって相対化できる――ただしうまくやれば――」
そうですね。人により考えの内容は違いますからね。各人に哲学は必要ですね。これが個人主義の基本ですね。 現実 (事実) は見ればわかる。Seeing is believing. 現実の正解は一つしかない。問答無用である。だから、ご唱和の内容になる。 非現実 (考え) の内容は見ることができない。だが文になる。文にならないものは考えではない。矛盾を含まない文は、全て正しい考えを表している。考えは、一人一人違っている。だから、正解は無数にある。考えの優劣を競い合う議論も可能になる。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れる。その一例を以下に掲げる。 私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
体系的な考えは哲学になる。各人に哲学は必要である。 Everyone needs a philosophy. 思考を停止して人は、つかみどころのない人間になる。日本人には自己の考え (非現実) がない。だから、わが国のインテリは受け売り専門の人になる。
イザヤ・ベンダサンは、自著<ユダヤ人と日本人>の中で、我が国の評論家に関して下の段落のように述べています。 評論家といわれる人びとが、日本ほど多い国は、まずあるまい。本職評論家はもとより、大学教授から落語家まで (失礼! 落語家から大学教授までかも知れない) 、いわゆる評論的活動をしている人びとの総数を考えれば、まさに「浜の真砂」である。もちろん英米にも評論家はいる。しかし英語圏という、実に広大で多種多様の文化を包含するさまざまな読者層を対象としていることを考えるとき、日本語圏のみを対象として、これだけ多くの人が、一本のペンで二本の箸を動かすどころか、高級車まで動かしていることは、やはり非常に特異な現象であって、日本を考える場合、見逃しえない一面である。 (引用終り)
大学などの高等教育機関で論文作りに励めば学士・修士・博士などの称号が得られる。博士は普通 '哲学博士' (Doctor of Philosophy: Ph. D.) と呼ばれる。 私は日本のインテリから ‘哲学とは何ですか’ と何度も聞かれた。外国人からは、このような質問を受けたことはない。日本人は大学で、自己の哲学を作ることを学んでこなかった。だから彼らは退屈男・退屈女となって大学在学中の4年間を遊んで暮らさなければならなかった。 政治に関する考えは政治哲学になる。宗教に関する考えは宗教哲学になる。科学に関する考えは科学哲学になる。人生に関する考えは人生哲学になる。などなど。 我が国の政治家には政治哲学がなく、わが国の宗教家には宗教哲学がない。わが国の科学者には科学哲学がなく、わが国の著述家には人生哲学がない。などなど。 TBSブリタニカとブリタニカ国際大百科事典を作ったフランク・ギブニー氏は、自著 <人は城、人は石垣> の中で、我が国の作家について次の様な感想を述べています。 孤立は日本式スタイルを誇る詩人、随筆家はいうに及ばず、小説家において最も顕著である。これは外国人にとっては判断をはばかられる主観的な領域である。しかし文学界で最も尊重される文章が意味を省略し、あいまいさに富み、漢字をうまく使って読ませ、文法分析家を意気揚々と悩ます一種の「気分の流れ」であることは一般に真実である (私の思考パターンは取り返しのつかぬほど西洋的なので、私は自分がスラスラ読めるような日本語の散文は深刻なまでに文学的優雅さに欠けているにちがいない、という大ざっぱなルールをとっている)。(引用終り) 我が国には人手不足の話はあるが、頭脳不足の話はない。わが国は、無哲学・能天気の国である。だから、国民は歌詠みになる。バラバラな単語ばかりの歌詞には意味がない。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で、言葉 (ロゴス) について以下のように語っている。 、、、、、 母親が子供に「チャント・オッシャイ」という場合、明晰かつ透明 (英語ならクリヤー) に言えということでなく、発声・挙止・態度が模範通りであれ、ということである。だが、クリアーということは、原則的にいえば、その人間が頭脳の中に組み立てている言葉のことで、発声や態度、挙止とは全く関係ないのである。プラトンの対話篇から、例として『クリトン』をあげてみよう。この対話は、明日の死刑執行を前にして、夜明けに、獄中のソクラテスをクリトンがたずねて、脱獄をすすめるところからはじまる。もちろんソクラテスは寝ている。だがどう読んでみても、ソクラテスが起き上がって、威儀を正して、法の遵守を説いて、クリトンに反論したとは思えない。ソクラテスは、おそらく最後まで寝っころがったままで話しているのだ。従って、この場合、純粋に、ソクラテスの言った言葉 (ロゴス) だけが問題なので、彼の態度や語調は全く問題にされないのである。日本では、「その言い方は何だ」「その態度は何だ」と、すぐそれが問題にされるが、言っている言葉 (ロゴス) そのものは言い方や態度に関係がない。従がって厳然たる口調と断固たる態度で言おうと寝ころがって言おうと言葉は同じだなどとは、だれも考えない。従って純然たる会話や演説の訓練はなく、その際の態度と語調と挙止だけの訓練となるから、強く訴えようとすれば「十字架委員長の金切声」という形にならざるをえない。(引用終り)
日下公人氏は、<よく考えてみると、日本の未来はこうなります。> の中で、日本人に関するW.チャーチルの感想を以下のごとく紹介しています。 日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。しかし、これでは困る。反論する相手をねじ伏せてこそ政治家としての点数があがるのに、それができない。 それでもう一度無理難題を要求すると、またこれも呑んでくれる。すると議会は、今まで以上の要求をしろと言う。無理を承知で要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人が全く別人の顔になって、「これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは、あなたは話のわからない人だ。ここに至っては、刺し違えるしかない」と言って突っかかってくる。 英国はその後マレー半島沖で戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを日本軍に撃沈され、シンガポールを失った。日本にこれほどの力があったなら、もっと早く発言して欲しかった。日本人は外交を知らない。(引用終り)
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