>現代ビジネス >「東大を出たエリートに負けるな!」、田中角栄を“熱烈に支持”した人たちの「やり切れない気持ち」 >学術文庫&選書メチエ編集部 の意見 • 昨日 6:00 >圧倒的な「地元人気」 >田中角栄といえば、新潟という地方出身、中央工学院卒業という政治家にとっては不利な経歴を跳ね除けるようにして、権力の階段を駆け上がり、その出世ぶりから「今太閤」と称されたことで知られています。 >いまも熱い人気を誇り、2010年代の半ばから後半にかけて、空前の「角栄ブーム」が起きたのは記憶に新しいところ。 >現代の政治を眺める際にも、参照点となるような政治家と言えそうです。 >田中の特徴の一つとして挙げられるのは、その恐るべき「地元人気」でしょうか。 >とくに1950〜70年代、田中の地元であった新潟三区での、田中の人気は圧倒的なものであったと言われます。 >その人気・支持は、田中が権力の頂点から去り、ロッキード事件によって裁判にかけられてなお、凄まじいものだったとされています。 >では、田中はいったいなぜそれほどの人気を実現することができたのでしょうか。 >もちろん、お得意の利益誘導が大いに影響していると考えられますが、一方で、「人気」というのは、人々の入り組んだ心理的要因が絡んでいるもの。 >利益だけでは説明できない、より複雑な何かがありそうです。
そうですね。
>そのあたりを詳しく描き出しているのが、著名な政治学者である高畠通敏(1933〜2004年)の『地方の王国』(最初に出版されたのは、1983年)という書籍です。 >「自分は新潟三区の人間だ!」 >高畠は、田中の地元である新潟県が、「南のほうの諸県」に比べると、豪雪などの影響によってなかなか経済成長・近代化を遂げられなかったこと、そのために新潟の北部に暮らす人たちのなかには、やりきれない思いや怨恨が募っていたことという、いわば、日本国内の「南北問題」を指摘したうえで、そうした状況が田中の利益誘導によるインフラ整備によって徐々に変化しつつあったことを描き出し、こう続けます。 >〈このようにして、新潟三区の山奥の村々にトンネルが掘られ、全面舗装された国道や県道が走るようになったのである。 >それと同時に、在郷の村落共同体は越山会(編集部注:田中の講演会)によって固められ、意識の下に沈んでいたかつての怨恨は、“南”側先進諸県に対抗する強烈な“ナショナリズム”に裏打ちされた連帯へと高められていったということができよう〉(同書39頁) >さらに高畠は、田中が国政において出世してもなお、地元を歩き、地元の事情に精通し、その知識をもって地元のインフラ整備に力を注いでいたことを描いたうえで、このように書きます。 >〈それは、田中がいくら中央で出世しても、自分は新潟三区の人間だといいつづけたことと無縁ではないだろう。 >実際、彼は、代議士となっても故郷から「出稼ぎ」にいっているのだと自称し、総理大臣になってもそのいいかたを変えなかった。 >(中略)それは、田中の心があくまで新潟三区という“こちら”側の世界にあり、南国や太平洋側の“あちら”側の世界にないという忠誠にほかならない。 >他の代議士たちはすべて、中央で出世するに従い、心を“あちら”側に移していった。 >新潟出身でも東大などのエリート大学を出て官僚になった連中が、すべて“あちら”側の人間である。 >ひとり、農民たちと同じように学校も満足に出なかった田中だけが、そういう官僚たちをあごの先でつかいながら、その心を“こちら”側に保ちつづけてくれているというわけだ〉(同書40頁) >ただの「今太閤」ではない >新潟三区の有権者たちは、こうした田中の姿勢に強く同一化した、と同書は書く。 >〈このように見てくれば、田中の出世物語は、地元の選挙民にとっては、単なる“今太閤”の物語ではあり得ない。 >出世した太閤は、決して昔の仲間の農民を訪れてサービスするなどということはしなかっただろう。 >またそれは、代議士と選挙民との間の、単なる利益誘導と票をめぐる取引ゲームにとどまる種類のものでもない。 >(中略)田中は、まさにその“あちら”側の牙城、東大出の官僚の集団の中にのりこんでゆき、彼らから「所詮、土建屋」と陰口を叩かれながら、しかしその彼らを堂々とつかいまくってきた。 >そこに、越山会員にとっての田中の本質的な意味があるのだ〉(同書40〜41頁) >地元・新潟では、ロッキード事件が「仕組まれたものである」とする陰謀説が強い影響力を持ったとされますが、高畠によれば、これも“あちら”側の人間に田中が足をすくわれたという見方、すなわち〈在郷越山会員たちの田中に対する熱い想いのそこにあるものを裏返しにした反応にほかならない〉といいます。 >日本という国のなかにある凹凸や起伏が、田中角栄という政治家への熱い想いを生み出したという指摘は、私たちに政治を見るうえでのヒントを与えてくれるかもしれません。
そうですね。 日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。
>なお、田中がおこなっていた利益誘導については、〈これほどとは…田中角栄が地元・新潟でやっていた「徹底的な利益誘導」、その“凄まじい現実”〉でその一端に触れています。
日本語は写生画の言葉であって、非現実 (考え) の内容を表さない。哲学は人間の教養である。哲学は非現実の内容であり、処世術は現実の内容である。日本人には哲学がないから、処世術 (損得勘定) のみに誘導されて人選びをする。だから、利益誘導には絶大な説得力がある。そして、新しい世界の先取りをする政治家は生まれてこない。
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