>現代ビジネス >「このまま会社にしがみついていていいのか」…45歳会社員男性の悩みに「辞める必要なし」といえる「もっともなワケ」 >矢萩 邦彦 の意見 • 11 時間前 >終身雇用が崩れた現代、今まで会社に人生と時間を捧げてきたサラリーマンは岐路に立たされている。
そうですね。’義理が廃ればこの世は闇だ’ということになりますか。
>特に転職適齢期を過ぎた40代以上は深刻だ。 >これからの仕事と人生をどう考えていけばいいのだろうか。
昔の日本人はハッキリしていましたね。武士は忠義、庶民は義理を果たすことが人間の務めですね。序列社会においては、忠義・義理は自己の属する人間序列に対する個人の義務でしたね。
>『自分で考える力を鍛える 正解のない教室』の著者で、大学院(M B A)で実践リベラルアーツ講義を担当しつつ、小中高生に向けて探究とリベラルアーツを主軸とした学習塾、知窓学舎塾長の矢萩邦彦さんに答えてもらった。
日本人は思考を停止している。だから、自分で考えることは難しい。そして、学校では受け売りと後追いの技を学ばせている。すると、指示待ち人間が大量に出来上がります。彼らは社畜になる。 人・人により考えの内容は違いますね。考えは文章になる。文章には意味がある。矛盾を含んでいない文章は、全て正しい考えを示している。だから、世の中には正解は無数にある。考えは自由である。
>同僚の独立・起業に動揺 >【質問】 >大学に出てからずっと新聞社で働いてきました。 >いろいろな部署を経験しましたが、一貫して文字に携わる仕事をしてきました。 >それに対しては誇りを感じていますし、どんなにネット社会になろうと文字を読む文化は消えないと思っていますし、こんな社会だからこそ文字文化を伝えていきたいという使命も感じています。
そうですね。文章には意味がある。書いたものは斧でも切れない。
>しかし、先日同僚が早期退職し、独立・起業しました。 >それを見て想像以上に動揺している自分がいます。 >自分はこのまま会社にしがみついていていいのだろうか?と思う気持ちが大きくなっています。 >とはいえ、子どもはまだ中学生でお金がかかる時期ですし、彼のようにいきなり会社を辞めて独立する勇気もありません。 >しかしこれから先、新聞社の未来も暗いと思います。 >どうしたらいいでしょうか。 >(Aさん・新聞社勤務 45歳 男性) >40半ばで将来の仕事を迷う気持ち、わかります。 >そこで今回は私の専門分野である「リベラルアーツ」の観点でお答えしていきたいと思います。 >まずは最初にリベラルアーツについて簡単に解説しましょう。 >リベラルアーツは日本語では「一般教養」と訳されることが多いですが、本来は「自由に生きるための技術」と言うような意味があります。 >「自由に生きる」とはやることを「自分で選択できる」ということです。 >そういうと、サラリーマンだから自由に仕事を選択するなんて無理、と思う人もいるかもしれませんが、自由に生きるとは仕事の内容だけの話ではありません。 >どんな立場であっても「自己決定」することが大事なのです。
そうですね。優柔不断・意志薄弱ではいられませんね。 しかし、日本人には意思がない。日本語文法には時制 (tense) というものが無く、過去・現在・未来の三世界の内容を文章にして示すことができない。意思は未来の世界の内容であるから、これも想定外になっている。 自由とは意思の自由の事である。日本人には意思がないから自由そのものにも意味がない。だから、’不自由を常と思えば不足なし’ という。日本人には恣意 (私意・我儘・身勝手) があるが、恣意の自由は何処の国でも認められない。それは ‘自由のはき違え’ になるからである。
>自己決定するためには、「複数の選択肢を持つ」ことと、「最適な選択をする」能力が必要です。 >それを前提に、Aさんのご相談を見ていきます。 >自由に生きるとは >まず注目したいのは、会社での仕事の内容自体はご自身で誇りを持っているし、有意義なものだと感じている。 >ここは非常に大事なところです。 >というのは、リベラルアーツ的に考えるならば、まず「自分軸」が大事なんです。 >自分軸とは「価値観」とほぼ同じ意味で、自分なりの美学だったり、何を正しいと思っているか、何を信じているか、といったことです。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)
>Aさんの場合、自分軸と今やっている仕事は合っています。 >社会的にも必要な仕事であると考えている。 >たまたま同僚が退職したことで自分軸が揺れてしまっただけです。 >「独立・起業する」ことが自由に生きている人のように思ったのかもしれませんが、最初に言ったように、自由に生きるとは裁量権があるかどうかや、どこかに所属しているかどうかではなく、いかに自己決定をするか、なのです。
そうですね。
>次に、新聞社自体の未来に不安を感じている、と言うころを考えてみましょう。 >未来を想像することもリベラルアーツ思考では重要です。 >それには「世界の基本構造」と「最新の世界観」を認知することが必要です。 >例えば5年後とか10年後とかっていうものを想像してみたときに、もしそこで楽しく仕事をしている自分が仕事の内容も含めてリアルに想像できるのであれば、それは社会の動きも会社の動きも認知できているということで、自分にとってはコンフォートゾーンにいることになります。
それはラッキーですね。日本語文法には時制がなく、日本人には世界観が無い。わが国には何でもある (現実) が、ただ夢と希望 (非現実) だけが無い。
>不安の原因は何か >しかし、Aさんは会社に関しては明るい未来ビジョンを持っていない。 >そこに不安の原因があるのです。 >その場合、その不安の原因は、自分で変化させることは可能なものなのか、不可能なものなのかを考えていきます。 >不可能なことなら悩んでも仕方がありません。
諦めか。日本人には不可能なことが多いですね。それは、日本人には自己の意思が無いからです。求めよ、さらば与えられん。何事も自ら積極的に求める態度が必要ですね。
>ただし、構造上は不可能であっても、選択肢を増やすことは可能です。 >今ある選択肢の他にも、自分がまだ知らない選択肢もあるし、まだ世の中の誰もが知らない選択肢を作り出すこともできる、と考えるのがリベラルアーツ的な考え方です。
<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族自滅の過程は見て取れます。その一例を以下に掲げます。 私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
>どういうことかというと、新聞そのものがなくなったとしても、新聞のような機能を持つ存在や、新聞を編集する能力も必要なくなる、と言えるでしょうか。 >それはまだ皆が想像力が及んでないところです。 >こう言うと紙を電子媒体にしよう、などメディアに限定された話になることが多いですが、実は新聞的な編集力っていうのは、全然活字メディアに限られる話ではなく、もっと幅広くいろんな分野で使えるはずですし、活かせる未来はたくさんあると思うんです。
そうですね。日本人の論説は、まだ未熟ですね。
>それこそ想像できない未来って新たな選択肢ということですよね。
想定できない未来は無いのと同じです。新たな選択肢にはなりませんね。創造力が必要です。
>『自分で考える力を鍛える 正解のない教室』にも書きましたが、未来が想像できないと言うことは、その分可能性があると言うことです。
日本語文法の特性により日本人には未来の内容が想定できないようになっている。だから、一寸先が闇に見える。
>それをどのように探っていくか、ということに舵きりしていけばいいわけです。
我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
我が国の ‘漢字かな’ は世界中何処の国に行っても通用しない。特にローマ字 (alphabet) の代わりに仮名を使用することには害毒がある。仮名漢字表記による学習で自分は世界に通じていると思い込む。だが、これは事実ではない。勝手な解釈により世界に関する独りよがりの解釈は避けられない。私は宿泊先のアメリカ人の名前は知っている。しかし、その綴り方は分からない。つづり字を考えることのない日本人の記憶方法だからである。このような文盲に近い体験の仕方では外国人との文通もできない。地図を見て探すことも難しい。かな書き英語が我が国民の国際化を果てしなく遠ざけているということができる。
国語の勉強は読み書きの練習である。ところが、日本語の仮名漢字表記は難しい。特に漢字の字形と音訓の習得に月日を費やし、目的の勉学の成果が遅れている。私の知人に '〇〇健' という名前の人がいる。彼は周りの人から 'タケちゃん' とか、'ケンちゃん' とか呼ばれている。'一体どちらが本当なのか' と私が尋ねると、彼は 'どちらでも良いのですよ' と答える。'でも、戸籍ではどうなっているのか' と尋ねると、'戸籍にはフリガナがありませんから、どう読んでも良いのですよ' という答えであった。これを '日本人の自由' というのであろうか。'あるべき姿' の追及がない。自由とは思考停止の言い逃れになっている。 とりわけ漢字圏以外の国から来た外国人には日本語の漢字は難しい。日本語をローマ字表記にすれば彼らもたちどころに日本語を読めるようになる。音読が言語の習得には欠かせない。読み書きが自由になると一人前の大人として活躍できる。筆記試験でも真の実力が発揮できる。外国人の能力に関してより公平な評価をする社会が我が国内に実現する。ぜひローマ字表記を法制化してもらいたい。ローマ字表記を仮名漢字表記と対等な地位にしてもらいたい。日本語をローマ字表記と仮名漢字表記の二刀流表記の国にすると良い。 '為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり' 上杉鷹山 (うえすぎ ようざん)
>「部分と全体を見る」 >最後に、最適な選択をするための方法として、「部分と全体を見る」ということをご紹介します。 >今回のお話で言うと、仕事は人生の中で一部分でしかありません。 >それだけではなく、もっと視野を広げて人生全体で見て、人生全体の中でバランスが取れているかどうかを見るんです。 >例えば、仕事の内容にあまりやりがいは感じなくても生活できるだけのお金はもらえているし、休みもしっかり取れていて、趣味に費やす時間も取れる。 >だとしたら人生全体のバランスは取れていることになりますよね。 >足りていないところもあるけれど、足りているところもあって、全体としてバランスはまあまあ取れていると自分で認知ができているんだったら、部分としてはネガティブでも、受け入れられることもたくさんあると思います。
そうですね。張り切りもほどほどにすることですね。
>仕事は全体のバランスを取るために必要なピースなんだなっていうふうに納得がいければそれはそれでOKじゃないですか。 >逆に、人生のほとんどを仕事に時間を使っていて、家庭やプライベートに使う時間はほとんどない。 >でも、もし本人がその仕事に社会的な意義やアイデンティティを感じ充実していて、その結果少々プライベートがうまく行かなくても仕方がない、と思っているなら、それはそれでいい、と言うことになります。 >部分だけで見ると、マイナスばかりが目について不安になってしまうんです。 >だから、視野を広げて全体を見ることが大事です。
そうですね。総体的評価が大切ですね。
>全体を見てもマイナスだったり不安を感じているなら、初めて次の一手を考えたり、チェンジしていけばいいんです。 >全体を見た時に、Aさんの場合はどうでしょうか? >今回のAさんのケースだったら優先順位は、自分軸と仕事が合っている、ということ。 >そして経済的に家族も守りたいと思っている。 >だったら、悩む必要はありません。 >会社が存続する限り、そこで頑張れば良いということになります。
そうですね。それが無難・上出来ですね。
>とはいえ、会社だけでなく、世の中の未来を考えた時に、自分の力はどうこれから役立っていくのか、広い視点で持っておく必要がある。 >これがリベラルアーツ的な答えです。
我が国の大学では、リベラルアーツ (哲学) に人気が無い。それが、とりもなおさず我が国民が無哲学・能天気であることを示しています。
.
|