2023年05月30日(火) 

 

>平和は黙っていても来てくれない 91歳が語った78年前の空襲   >毎日新聞 によるストーリー • 5 時間前   

> 横浜市中心部が一面焼け野原になった横浜大空襲から78年を迎えた29日、中区の横浜にぎわい座で犠牲者を悼み、記憶に刻む「祈念のつどい」があった。   

>中学2年生で被災した桜井常博さん(91)=西区=は、過酷な体験談を参加者約140人を前に語った。   

>これまで人前で話す機会がなかったが、卒寿を迎えて心に決めた。   

>「平和は黙っていてもきてくれない」  

 

‘求めよさらば与えられん’ ですね。自ら積極的に求める態度が大切ですね。      

 

> 78年前の5月29日は「久しぶりの登校」だった。   

>直後に警戒警報が出され、家路を急いだ。   

>両親と6人きょうだいの8人家族。庭に掘った防空壕(ごう)に、幼いきょうだいを連れて逃げ込んだ。   

>しばらくして扉を開けると、五月晴れだった空は「夕暮れのようになっていた」。   

>街は黒煙に包まれていた。   

> 自宅にも火の手が迫り、2歳の妹を背負い、5歳の弟の手を引いて逃げた。   

>P51編隊が超低空で機銃掃射をしながら飛んできて「まるで生きた心地がしなかった」。   

>東海道線を走る蒸気機関車(SL)は火を噴きながら走り、大きな工場は屋根に焼夷(しょうい)弾が滑り落ち炎上していた。   

>「この世のものではなかった」。   

>一面焼け野原で、焼けただれた遺体が多数あり、異臭がした。   

> 家族は全員無事だったが自宅が焼け、近所の知人宅に身を寄せた。   

>ただ驚くほど冷たくされて、ほどなくして父親が調達してきた資材で建てたバラック小屋で暮らした。   

>それでも不思議と「これでやっと銃後の一員になれた気がした」と思ったという。   

>天皇に忠義を尽くすことが最大の美徳とされた時代。   

>桜井さんは「国による徹底したマインドコントロールを受けていたのだろう」と振り返るように語った。   

 

日本語の文法には階称 (hierarchy) というものがあり、’上と見るか下と見るか’ の判断なしには語れませんね。序列社会におけるマインドコントロールは徹底していましたね。’君に忠、親に孝’ でしたね。         

 

> 戦後、桜井さんは保険の外交員として定年まで勤めた。   

>空襲の体験は手記にまとめたが、率先して人前で語ろうとはしなかった。   

>だが昨年8月、隣町の下級生が語り部を始めたことを知り、「事実を後世に伝えるのは生き残った我々の責務」と決心したという。   

>「戦争を知らない世代の世界のリーダーたち。   >安易で軽率な行動から、(これまで以上に)いつ戦争になってもおかしくない」と警鐘を鳴らす。   

 

田原総一朗です。

僕は、「君が代」にも「日の丸」にもおおいに抵抗感がある。「太平洋戦争は侵略戦争であり、その侵略のシンボルとして、日の丸・君が代が使われた」と教えられたからだ。なので僕自身、40歳を過ぎるまでは太平洋戦争は侵略戦争だと思い込んでいた。だが、40過ぎる頃から太平洋戦争を侵略戦争だと決め付けるのはおかしい、と思い始めた。

歴史を調べると、太平洋戦争を始めた人達の中に、日本が勝つと思っていた人はほとんどいなかった。山本五十六元帥を始め幹部達は半年、長くても1年戦うのが限界だと考えていた。そして半年や1年の戦争で勝てるとは誰も思っていなかった。負けるに決まっている侵略戦争などする人間はいない。太平洋戦争は日本は世界で孤立し、戦争せざるをえないとこへ追い込まれたと僕は捉えている。

なぜ孤立したのか。僕は、大東亜戦争は侵略戦争ではないと思う。しかし、満州事変と日中戦争は侵略戦争だと捉えている。ただし、満州事変は始めてもイギリスやアメリカが支持してくれる、と思い込んでいた。現にイギリスは日本を支持し、アメリカは干渉しなかった。侵略戦争が良いとは思わないが、いわゆる先進国はイギリスをはじめ例外なくいずれも侵略戦争をたびたび行い、戦争に勝って相手を植民地にしてきた国である。誤解を恐れずに言えば、勝てば官軍である。

問題は日中戦争だ。日中戦争の発端である盧溝橋事件は中国側が先に撃ったのである。盧溝橋の現地人は停戦協定を結んだ。ところが参謀本部が中国をやってしまえ、という事になった。中国を完全に甘くみていたのである。そして、イギリスやフランスが日本を支持してくれると思い込んでいたのだ。ところが、その中国の利権を巡ってイギリスと対立関係となった。イギリス、フランス、そしてアメリカ等が日本と険悪な状態になり、ついに孤立してしまった。そして大東亜戦争に突入せざる得なくなった。米・英・蘭、そして中、更にロシアまで敵にして勝てるはずがない。はじめから負けるに決まってる戦争に突入してしまったわけだ。

僕は、戦後「君が代」日の丸は当然作りかえられるものだと思っていた。ところが、結局作り変えられることなく60年以上たってしまった。僕自身にもおおいに責任はあるが、ここまで来ると抵抗感がありながら認めざるを得ないのかなと思う。

 

> 講演後、取材に「体力が続く限り、語り続けたい」と述べた。   

> つどいは、体験者や研究者らで構成する「横浜の空襲を記録する会」の主催。  

 

日本人は責任をとりませんね。意思の無い人間には責任がない。日本人には意思が無い。加害者意識 (罪の意識) がない。深刻な反省には至らない。過ちを繰り返す。兎角この世は無責任。      

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)   

 

>死者数など実態が正確に把握されていない中、体験者らの話を通じて事実を記録しようと毎年開催している。  

 

太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も早々と投降して、75000人以上の将兵の命を救った。

太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。

日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はなかったのか。

人命の尊重はどのように考えられていたのであろうか。    

 

>【岡正勝】   

>横浜大空襲   

> 横浜市史資料室によると、1945年5月29日午前、サイパンから飛来した米軍のB29爆撃機が市内上空に達し、約1時間をかけて43万個超の焼夷(しょうい)弾を投下。   

>市街地は猛火に包まれ、直後の公式発表では死者・行方不明3959人、重軽傷者1万198人の被害をもたらしたとされる。   

 

 

 

 

 

 


閲覧数115 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2023/05/30 19:45
公開範囲外部公開
コメント(0)
  • 次項有コメントを送信
    閉じる
    名前 E-Mail
    URL:
■プロフィール
シンちゃんさん
[一言]
明るい未来社会を築こう
■RSSフィード
RSS 1.0 RSS 2.0 Atom 1.0
■このアルバムのURL
https://e-jan.kakegawa-net.jp/blog/blog.php?key=855666