>東洋経済オンライン >今の日本人を生きづらくさせている「抑圧」の正体 なぜ人は他人の話を自分ごとにしてしまうのか >尹 雄大 の意見 • 5 時間前
それは日本人には自他の区別がないからでしょう。
>「わかりやすく話そう」を重視した結果、私たちの話はただの「情報のやりとり」に陥っていないだろうか?
そうですね。実況放送・現状報告のやりとりばかりですね。
> 共感して聞くことを重視した結果、私たちは相手の話に自分を投影しているだけで、ちゃんと相手を理解しようとする姿勢を忘れていないだろうか──。
そうですね、日本人は同情はするが理解はないですね。
>そんな疑問から、「本当の言葉」を大切にしている人たちに話を聞き、コミュニケーションを考え直す書籍、『聞くこと、話すこと。 人が本当のことを口にするとき』。 >本稿では同書より、私たちが人の話を聞くとき、無意識にその人や話を「ジャッジ」してしまうことについて考察します。
‘ジャッジ’ は処世術の内容から来ていますね。
>人の話を客観的に聞くことはできるのか? >「その人の話」を「その人の話」として聞く。
考えは人人により異なりますからね。その人の話は大切なことですね。
>極めて単純でありながら、いざ取り組もうとすると難しく感じる。 >どうすればそれが可能かと考えて導き出されるのは「客観的に聞く」といったところだろう。 >冷静に、俯瞰してといった言葉をそこに付け加えることもできる。 >では、その客観的な聞き方が実際に行っているのはどういうものかと言えば、「根拠に基づいているか」や「常識に則っているか」を気にしたもので、客観とはまるで関係がない。 >それでは世間のいう正しさにかなっているかどうかに配慮しているに過ぎない。
まるで試験を受けているようなものですね。
>たとえばアーティストへのインタビューにおいて、なぜそう思ったのか? なぜそんな行動をしたのか? とインタビュアーが理由を尋ねても、感覚的な話に終始して問いとすれ違うような返事が多い。
アートは言外の活動ですからね。リーズン (理性・理由・適当) とは関係ない。だから論文にならないのである。
>それもそのはずで、彼らは直感によって創作しているのだから、「そう思ったし、気づいたらそうなっていた」といった類いの話になる。 >彼らにとって大事なのは表現であって説明ではない。
そうですね。それは歌詠みのようなものですね。理屈を考える余地はありませんね。
>そうなると根拠を軸に話を聞くことは、こちらの常識に寄せようとしているだけで、相手の話を相手の話として聞くことからほど遠い。 >その隔たりを「才能の豊かさ」で括ってしまったら何も話を聞いていないのに等しい。
言外の活動に話は無用ですね。その価値は実物以上でもなければ、実物以下でもない。実物そのものです。
>「常識に則っているか」に至っては、「みんながそう言うから」といった他人任せの言い換えでしかない。 >話し手の目の前にいるのは私であるのに、「みんな」を持ち出して、「私」として対峙していないのだから、とても失礼な態度だと思う。
そうですね。判断の基準が違いますね。
>普段から客観という語を多用するわりには、それについてずいぶんと誤解し、誤用している。 >主観を省けば客観的になれると思ってしまうのもそのひとつだ。 >でも、その発想はすぐに壁に行き当たる。 >なぜなら主観抜きの客観など存在しないからだ。 >考えるまでもなく、私の存在を抜きにして私は事物を観ることができないし、話を聞くこともできない。
そうですね。私の存在が自己の見解というものですね。
>客観性はもしかしたら幽霊のような視点 >主観というものを独善で狭小なものと考えてしまうのは、私たちの自信のなさの現れだろう。
個人主義がありませんね。
>そうまでして自分のものの見方を放棄して何を得ようとしているのだろう。
他力本願・神頼みですね。
>誰ともわからない外部の視点でものを見ることを客観的で正しいと思っているとすれば、とても奇妙なことなのだが、あまりそのことを疑わない。
つかみどころのない人ですね。
>私たちが信頼を寄せている客観視はもしかしたら、この世に存在しない幽霊のような視点を取ろうという試みに近いのかもしれない。
そうでしょうね。
>では現実に足をつけて世界を捉えるには何が必要だろう。 >「いかに客観的になれるか」ではなく主観の徹底に手がかりがあるのではないだろうか。
そうですね。考える人 (the thinking man) になることですね。
>つまり、自分のものの見方は、どこに立って、どの角度から、どのように見ているから成り立っているのか。 >私の見方について省みる。 >これに徹した結果が客観性になり得るのかもしれない。
そうでしょうね。
>自分の視点を検討するとは、自分が見ている景色は実はカメラのレンズ越しだと知るところから始まる。 >枠の外にも景色は広がっているにもかかわらず、私たちはある範囲を捉えることしかできない。 >それを狭い見方と言うこともできるけれど、ほかならない自分の目で見るとは、限界を生きることであり、それが私たちの原点であり主体性の始まりだ。
そうですね。 恐竜時代には誰一人人間はこの地球上に住んでいなかった。だのに、古生物学会では、化石などを証拠に事細かに恐竜の生態を説明する学者が現れる。彼は自己の考えを述べているのである。これは、見て来たような嘘に違いない。
>問題は、見たものが世界のすべてだと思い込んでしまうことだ。 >その錯覚に気づくには、カメラをどの位置と高さと角度で構えているからその景色が見えてくるのか、を知るかにかかっている。
考えの内容は一人一人違っていますからね。人間の数だけ世界がある。
>自分にとってあまりに当たり前すぎることを改めて捉え直すのは難しい。 >だからこそ、自分の行っているジャッジのあり方を知らなくてはいけない。 >いわば撮った写真から「何をどのようにどこから撮っているか」の観点を探るわけだ。 >相手の話を「私の話」として聞いてしまうとき、「私」は必ずジャッジしている。 >相手の話に対して、「それはあなたの言い方が悪い」だとか善悪正誤をつけ、アドバイスをし、挙句の果てには「どっちもどっちじゃないか」と諭したりする。
それは時間の無駄遣いですね。
>どれもこれも無自覚にやってしまう。 >つまり深く考えているわけではなく、自動的な反応として言葉を羅列している。
そうですね。幼少のころからやりつけている言葉の羅列ですね。この自動的な反応から抜け出すためには英米流の高等教育が必要ですね。
>自分の解釈が善悪正誤を決めている >私たちは物事をジャッジするとき、善悪は対象に属していると思っている。 >相手がいいことをしたから、それを「良い」とし、悪いから「悪い」と判断したと。 >そうではない。 >自分の解釈が善悪正誤を決めているのだ。
そうですね。何事も自分の解釈次第ですね。
>あなたが誰かの行いや発言に「善悪」をつけたとき、そこで明らかになるのは、あなたが長年培ってきた価値観であり信条だ。 >それはどのようにして身につけたのだろう。 >赤ん坊の頃は何をしても「すごいね」「よくできたね」と誉められたはずだ。 >いつしか「それはしてはいけない」「正しいやり方でしなさい」「そんなこともできないの」と言われるようになる。 >とはいえ、「それはいけない」が車道に飛び出ようとする子供を危険にさらさないための咄嗟の制止であれば、生き死にに基づいた問答無用のジャッジであるから是非は問えない。 >ところが、言葉をうまくしゃべるようになるくらいから、次第に社会の枠内での善悪にかなうかどうかで判断されるようになる。
そうですね。野球をする時には野球のルールを知らなければならない。そうでなければ野球仲間には入れない。
>「みんなの迷惑になるから静かにしようね」とか「そんなことしていると恥ずかしいと思われるよ」といった、柔らかい物言いでありながら、身体をきっちり拘束する言葉を耳にするようになる。
それは常識というものでしょうね。礼儀正しい日本人は、礼儀作法 (序列作法) を守っている。
>そのジャッジはそれぞれの親が身につけた考えに従っている。 >私たちは自分の体験を親や周囲に教わった善悪正誤の枠に従って分類するようになる。
そうですね。白黒の判別は処世術 (損得勘定) ですね。それは初歩的な生きる手段ですね。
>誰でも怒られるより誉められる方が嬉しい。 >そうして覚えた通りの判断をし行動するとさらに「いい子だ」と評価されるので、「これでいい。これが正しいのだ」と教わったことを信念に置き換えて、しっかりと身につけるようになる。 >こうした家庭の中で養われる善悪正誤のコンセプトの背景にあるのは社会や文化、ひいては歴史、風土が培った慣習だ。
そうですね。右側通行と左側通行を間違えると致命傷になりますからね。
>私たちの住む島では、協調性があるのは良いこととされ、独自性は自分勝手と言われがちだ。 >「独自性がある」のはそれ自体ではなんの問題もないはずだが、自分の考えをはっきりと口にするだけでわがままと言われることも多い。
‘出る杭は打たれる’ ですね。
>では、わがままの判断基準は何かといえば、「みんなと違うから」「みんながそう言うから」に委ねられる。
ご唱和の世界においては独創的であることは難しいですね。
>突き詰めると、みんなとは空気のことだから、それを吸っているうちに身につくものだという期待が一方的にされている。
それではアニマルと同じ生涯になりますね。
>基準はいたって曖昧なままで、そうして個性の尊重や多様性というスローガンだけが連呼されていく様子を私たちは目の当たりにしている。
基準はない。我々は自由ですね。それでも自由になれない。いろいろな制約があるからです。
>多くの人が「生きづらい」と口にするのは >もちろん白黒はっきりさせないことの利はある。
それ自体が白黒のはっきりしないことも多々ありますね。
>祖先が長年かけて作り上げてきた習わしには、それなりの恩恵があるはずだし、良いところはある。 >と同時に害があるのも確かだ。
害だけを無くすことができると良いのですがね。 そこが頭の使いどころですね。
>ものをはっきり言わないのは気遣いでありながら、一方で本当のことを決して言わないことでもあるように。 >そう思うと、多くの人が息苦しい、生きづらいと口にするからには、今はこれまで育んできた文化や習慣の負の面が目立つ時代になっていると言っていいのだろう。
そうですね。負の面を明らかにしてその改善を提案したらよいですね。 ‘求めよ、さらば与えられん’ ですね。
>私たちのジャッジの基準は、生まれ育った環境、時代、社会の中で選ばざるを得なかったというような、極めて個人的な事情に基づいている。 >生き延びるためにそれを身につけてきた経緯がある。
そうですね。それは人生経験ですね。
>事実を事実として、起きたことを起きたままに捉えるのは、簡単であり難しい。 >容易であるのは、そのままを観るのはなんの努力も勇気もいらないからだ。 >困難であるのは、そのままを観ることができない理由が、観るわけにはいかない必然性がそれぞれの人生にはあるからだ。
考えは人によりまちまちですから見ることも困難な人が多いですね。
>他人の話を聞く前に、自身のジャッジを形成するに至ったストーリーを知り、その顚末を最後まで聞きとり、それを手放さない限り、私たちは相手の話を聞くことができない。 >本当に人を尊重することはできないのだ。
‘自分は自分、他人は他人’ ですね。それは独立した本当に人を尊重することになりますね。
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