2023年07月06日(木) 

 

>AERA dot.   >内田樹「『民主主義という呪符』が日本で霊力を失った理由」   >13 時間前   

> 哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。   

>時事問題に、倫理的視点からアプローチします。   

>*  *  *   

> 社会人対象で映画論の授業をしている。   

>今期のテーマは「戦後日本が失ったもの」である。   

>今井正の「青い山脈」を観て、「民主主義という呪符」がその霊力を失ったのはなぜかという話をした。   

>「青い山脈」は1949年の作品である。   

>憲法施行からわずか2年後、文部省が『民主主義』と題する分厚い教科書を全国の中高生に配布した翌年の作品である。   

>「民主主義」という言葉が陸離たる光芒を放っていた時代である。   

 

民主主義は無哲学・能天気の国民の流行語でしたね。    

 

>映画の中では、原節子も池部良も「民主主義」という単語をまるで壊れやすく、決して汚してはいけない透明度の高いガラス細工のように扱う。   

>民主主義に敵対する人たち(街のボスや軍国主義を振り切れていない教師)でさえ、「それは民主主義的ではない」という断罪に怯えて、「民主主義」の前に叩頭する。   

>民主主義の呪符としての力がそれほど強かった時代がかつてあったのである。   

 

民主主義は水戸黄門の印籠のようなものですね。時代劇は今でも流行りですね。日本人は権威に弱い。        

 

> 今の日本は、一応はまだ民主主義政体の外観を保ってはいるけれど、権力者とその周辺にいる人物が公権力を私用に供し、公共財を私物化しているネポティズム政治の腐敗ぶりを見ると、もう「部分民主主義」に類別されてもおかしくない。

>そんな社会に「民主主義」という単語をまぶしいものでも見るように仰ぎ見るという感性が生き残っているはずもない。   

 

日本は馴れ合いの国ですからね。民主主義などではない。  

 

> だがなぜ、あの時代には「民主主義」という語が例外的な呪力を発揮できたのか。   

>それについての仮説を立てた。   

> 敗戦国民には誇るべきものが何もなかった。   

>維新以来80年かけて先人が営々として築き上げてきた帝国の版図も、政治的威信も、文化資本もことごとく灰燼(かいじん)に帰した。   

>世界五大国の一隅を占めていた帝国臣民は餓死に瀕していた。   

 

日本人は夢を見過ぎたのでしょうね。賢い人は ‘純粋によく観察する’ が、そうでない人は ‘自分の期待したもの’ しか見ようとしない。成功体験が邪魔をして失敗体験から貴重な教訓を学び取ることができなかった。   

 

>瓦礫(がれき)の中に無一物で取り残された敗戦国民の手に唯一残されたのが道義性において世界に冠絶する平和憲法と、先端的な日本の民主主義だった。   

> 誇るべきものがそれしかない時に人はすがりつく。   

 

そうですね。伝統的な他力本願・神頼みですね。   

 

>その少し前に「畏れ多くも」と聴くと、踵(かかと)を打ち合わせて直立不動になったのと変わらない。   

 

日本人の文化に形式があって内容が無い。民主主義の崇拝は無哲学・能天気の人達には無理からぬことである。      

 

>あの時代の人たちは「畏れ多くも民主主義にあらせられては」と読み換えたのである。   

 

そうですね。日本語には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。     

 

日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。

 

日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬には浅薄さが付きまとう。   

 

日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが正一位の獲得は難しい。   

 

>内田樹(うちだ・たつる)/1950年、東京都生まれ。   

>思想家・武道家。   

>東京大学文学部仏文科卒業。   

>専門はフランス現代思想。   

>神戸女学院大学名誉教授、京都精華大学客員教授、合気道凱風館館長。   

>近著に『街場の天皇論』、主な著書は『直感は割と正しい 内田樹の大市民講座』『アジア辺境論 これが日本の生きる道』など多数   

>※AERA 2023年7月3日号   

 

 

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閲覧数66 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2023/07/06 23:04
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