2023年09月02日(土) 

 

>集英社オンライン   >関東大震災から100年目の劇映画『福田村事件』…「日本のメディアがゴミだと思うなら、それは社会もゴミだということ」ドキュメンタリー作家・森達也がそれでも日本に絶望しない理由   >1 日   

(略)

>──福田村事件が起きたのは、関東大震災発生から5日後の1923年9月6日。   

>香川県から福田村(現在の千葉県野田市)にやってきた薬売りの行商団9人が朝鮮人と間違われ、自警団を含む100人以上の村人たちに殺された事件です。   

>2001年に小さな新聞記事を読んでこの事件を知ったそうですが、映画にしたいと思うほど惹きつけられた理由は?   

>僕の映画製作の原点は、オウム真理教の信者たちを被写体にした『A』(1997)です。   

>あの映画を撮るときに感じた「なぜこんなに穏やかで純真な人たちが事件を起こしちゃったんだろう」という疑問は、僕の中で通奏低音みたいに今も響いています。

>その問題提起に対してのひとつの答えは、“組織”、あるいは“集団”です。   

>個人であれば決してできないことを、人は集団の一部になったときにやってしまう。   

 

日本人には個人がありませんからね。絶えず ‘皆が、、、皆が、、、’ と言っている。     

‘人の振り見て我がふり直せ’ ということですね。    

 

>虐殺や戦争が典型だけど、そういう歴史は世界中にいくらでもあります。   

>人は一人では生きていけないし、群れることを覚えたからこそこれほど繫栄したけれど、集団になったときの副作用もあるわけです。   

>“集団”と“個”の相克は僕にとって大きなテーマになっていて、『A』や『A2』はもちろん、その後に作った『FAKE』(2016)や『i-新聞記者ドキュメント-』(2019)にも繋がっています。   

>今回の『福田村事件』(2023)は劇映画として、そのテーマを集大成的に表現できたと思っています。   

>あともうひとつ、日本社会全般がこの20年ほど、特に安倍政権以降、負の歴史を忘れようとする傾向が強くなっていると感じています。  

 

‘負の歴史’ は ‘加害の歴史’ ですね。向上心豊かな日本人には国際的にもマイナス評価になるかもしれませんね。     

日本人には意思が無い。意思の無い人間には加害者意識がない。あるのは被害者意識ばかりである。これはアニマルも同じである。罪の意識がない。         

加害者意識は高じて罪の意識になる。西洋の人々は贖罪により罪の意識から逃れようとする。だから贖罪の為の宗教 (キリスト教) は西洋では存在価値がある。   

 

>それは映画も同じです。   

(略)    

>報道は“視点”であり、信じるものではない   

(略)   

>──事件の当事者ではない人物の視点が加わっているとはいえ、劇中では被害者や加害者の視点も等しく描いています。   

>加害者を断罪するわかりやすい勧善懲悪ではなく、「村八分にされたくない、家族を守りたい」など加害者にも加害者の立場があったことを提示する物語に、なんとも後味の悪さを感じました。   

 

‘不自由を常と思えば不足なし’ ですね。昔風ですね。    

 

>うん。後味が悪い映画にしたかったから、それでいいんです。   

>加害者の側と自分が地続きだということですよね。   

>それは後味がいいはずがないです。   

 

それは罪の意識のようなものですかね。   

 

>──その視点は、中立である気がしました。   

>社会が偏っているから、僕の視点が中立に見えちゃうんじゃないかな。   

>『A』を上映をしたときも、時おり観客から「メディアは嘘ばっかり報道していたんですね。   

>やっと真実を見て感動しました」みたいなことを言われることがありました。  

 

真実は一通りしかありませんね。それに対する意見は無数にある。     

現実の内容は頭の外にある。これは一通りしかない。意見の内容はそれぞれの個人の頭の中にある。これは無数にある。   

 

>嬉しいけれど言わなくちゃならない。   

>作品は真実ではないし、ましてや中立でもない。   

>あくまでも、僕の視点で描いたものだから、これは僕の真実だけどあなたの真実ではない。  

 

そうですね。人人により考えの内容は違いますからね。    

矛盾を含まない限り全ての文は正しい考えを表しています。   

 

>同じときに、同じ場所で誰かがカメラを回していたら、全然違う作品になったはずです。   

>『福田村事件』も、僕が思ったことを自分の視点で描いただけ。   

 

個性豊かな作品ですね。   

 

>公平性や中立性は全然意識していません。   

 

作品は個性的で良いですね。   

 

>今回、映画公開に向けてたくさんのインタビューを受けていますが、何度かされて困ったのが「どんなメッセージを伝えたかったんですか?」という質問。   

>映画を見た人によって感じ方は違うし、その全部が正解だと思っています。   

 

その通りですね。我々は自由な世界に生きています。他人との内容の違いを指摘されて極刑に処されるような社会はまっぴらですね。          

 

>「100年前に起きた事件だけど、昔話ではないな」くらいに思ってくれれば十分です。   

 

日本語脳の活動は不変ですね。    

 

>──私たちは日々、多くのニュースを目にします。   

>監督はどんな視点で捉えるようにしていますか?   

>自分の視点でいいんじゃないですか。   

 

そうですね。個性豊かな社会を目指していますね。    

 

>僕は大学でも教えているので、学生から「どのメディアを信じればいいですか?」みたいな質問をされることがある。   

>でも、情報って信じるものじゃないから、「まず信じるって言葉を使った時点で間違いだよ」と伝えています。   

>今日の取材だって、終わったあとに「森さんって意外と気さくだったね」と思う人もいれば、「やっぱり不愛想で怖かった」と思う人もいるかもしれない。   

>その思いは絶対に記事に反映されます。   

>映像の場合も、カメラワークや編集に作り手の思いは滲む。   

>そういう意味では、どんな情報も誰かの視点をフィルターにしているわけです。   

>視点がない情報はありえない。  

 

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)      

 

>あらゆる情報は信じるものではなく、ひとつの視点として受け取るものだと僕は思っています。  

 

その通りですね。   

 

>例えば沖縄の基地問題の場合、朝日新聞と産経新聞では論調が違いますね。   

>なぜなら、それぞれの視点で書いているから。   

>ただしここでいう視点は、“読者のニーズ”です。   

>日本の新聞は定期購読がメインですから、読者のニーズを絞りやすい。   

>逆に言えば、読者のニーズに支配される傾向が強い。   

>ニーズに応える形で誌面を作っていくと、産経新聞は「基地は必要」になるし、朝日新聞は「基地は必要ない」という論調になる。   

>どっちも嘘ではないし、どっちが真実かという議論にも当てはまりません。   

>集団化することは回避できない人間の本能   

>──ネットニュースのコメント欄を読むと、メディアを批判する割に、ニュースを信じている人が多いという印象もあります。   

>最近はあまり見なくなったけど「マスゴミ」って言葉をネットで使う人いるじゃないですか。   

>仮に日本のメディアがゴミのレベルならば、それは自分も含めて社会のレベルがゴミだということです。   

>だって、メディアは社会のニーズに応えているわけだから。   

 

そうですね。我々の社会はマスゴミの社会ですね。  

 

>さっきの朝日新聞や産経新聞と同じように、みんな営利企業なので当たり前です。   

>映画でも同じことが言えると思います。   

>僕は『福田村事件』の企画を大手の映画会社に持って行ったら、「別の企画ないですか」と言われました。   

>その理由は、これは推測だけど、リスクが大きいと思われたことに加え、この企画では観客動員が期待できないと彼らが思ったから。   

>それは間違いじゃないです。   

>だって映画も社会の合わせ鏡なわけですから。   

>なんで日本の映画がこんな体たらくなのかというと、社会がそんな体たらくだからだと思います。   

 

そうですね。日本人の社会には無哲学・能天気の人が多いですね。      

 

>──監督は過去のインタビューで「日本は同調圧力が強い社会だから、世界で最もベストセラーが生まれやすい」とおっしゃっているのが印象的でした。   

>数量的な根拠はないけれど、外国のジャーナリストにそう言われました。   

>でも指摘されたら確かに、「みんなが見るから私も見る」「みんなが読むから僕も読む」という衝動がとても強い国だな、と思います。   

 

我が国の住民の文化が統一されていますからね。    

 

>──それでも監督が作品を作り続けるのは?   

>何よりも映画が好きだから。   

>観ることも作ることも。   

>これに尽きます。   

>まあ無理やりに付け加えれば、100%絶望していないし、きっかけさえあれば、日本社会だって変わるかもしれないと思っているからです。   

 

そうですね。戦前とはずいぶん変わりましたね。     

 

>そのためには、やっぱり失敗体験から目を背けてはいけないと思います。   

>『福田村事件』は自虐史観だと言われかねないけど、人間に置き換えればいいんですよ。   

 

日本人は反省しないですね。反省は自虐 (じぎゃく: 自分で自分をいじめること) であって避けなければならない行為と考えられていますね。   

 

>失敗とか挫折とか失恋とかを全部忘れて、一流大学に合格したとか成功体験ばかり記憶している人とは口も利きたくないですよね。   

 

失敗は成功の母ですからね。忘れるのは大損害ですね。    

 

>この国はそうなりかけていると思います。   

>──社会が変わるきっかけを投げ続けている?   

>んー、でもあくまで『福田村事件』はエンタメですから。   

>もちろん、エンタメっておもしろおかしいものだけではありませんよね。   

>いろんなエンタメがある中のひとつとしては、おもしろい作品になったと思います。   

>集団化することは人間の本能です。   

>これは回避できませんし、すべての集団から離脱しようと思っても無理です。   

>でも、集団でこんな間違いを犯した過去があるという意識を持つだけでも、ずいぶん違うと思っています。  

 

そうですね。   

 

(略)   

>取材・文/松山梢   

 

 

.

 

 

 

 

 


閲覧数352 カテゴリアルバム コメント0 投稿日時2023/09/02 20:48
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