>現代ビジネス >「なぜのうのうと生きて帰ってきたのか」…戦没者慰霊祭で帰還兵の家族に向けられた「冷たい視線」と「衝撃的な一言」 >遠藤美幸によるストーリー・ >2日 >「戦友会」と聞いてピンとくる人は、どれだけいるだろう? >慰霊や親睦のために作られた元将兵の集まりだが、その「お世話係」として参加し、戦場体験の聞きとりをつづけてきたビルマ戦研究者がいる。 >それが遠藤美幸さんだ。 >家族でないから話せること、普段は見せない元兵士たちの顔がそこにある。 >『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』(生きのびるブックス)から、その一端をご紹介したい。 >世界中がキナ臭い今、戦争に翻弄された彼らの体験は何を教えてくれるのか。 >本記事は、『悼むひと 元兵士と家族をめぐるオーラル・ヒストリー』(生きのびるブックス)を抜粋・再編集したものです。
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>洋子さんは今年で71歳。 >父親が戦争に行っている世代としては若い方だ。 >戦争が終わって7年後に生まれた洋子さん。 >このことは彼女の父親が戦場から生きて帰り、戦後に家族をつくったことを意味する。 >当たり前だと思われるかもしれないが、ビルマ戦線のように帰還者が3人に1人という過酷な戦場では当たり前の話ではない。 >杖を突きながら老体を引きずるようにして戦没者慰霊祭に参列する老親、彼らに付き添う娘や息子や孫の姿はよく目にするが、洋子さんも父親が亡くなるまでは、父親に付き添って慰霊祭に家族として参列していた。 >「のうのうと帰って来て」 >かつて、その光景を複雑な思いを抱えながら見詰める遺族もいた。 >「なぜ、あの人はのうのうと生きて帰って来て、父は帰って来てくれなかったのか……」 >のうのうと生きて帰って来たのでは毛頭ないのだが……。
九死に一生を得て帰国した復員軍人を侮辱するのは良くない事ですね。 好きで 好きで大好きで 死ぬほど好きな戦 (いくさ) でも 原爆投下にゃ勝てはせぬ 泣いて崩れた敗戦日。 残念ながらわが国の原爆開発はアメリカに後れをとった。しかし本土決戦と一億総玉砕は避けることができた。めでたし めでたし。 太平洋戦争初期に、フィリピンの米比軍はキング少将もジョーンズ少将も早々と投降して、75000人以上の将兵の命を救った。 太平洋戦争後期に、日本軍は米空軍の飛来をゆるして、1945年3月10日未明、東京の下町の江東地区がB29約300機による空襲をうけ、死者10万をこす被害を出した。 日本人の指導者には、作戦の成否を予測する力はなかったのか。 人の命はどのように考えられていたのか。 ‘命 (ヌチ) どぅ宝’(何をおいても命こそが大切である。)ではなかったのか。 ‘封建国家で最も安価な資源は人命だが、我々にとっては、最もかけがえのないのは国民だ’(ウクライナ軍のワレリー・ザルジニー総司令官)
>戦没者の遺族がそのように言いたくなる気持ちもわからないではない。
悪平等ですね。
>戦没者慰霊祭は、当然ながら帰還者の元兵士と戦没者の遺族が、亡くなった兵士の御霊をともに悼む場である。 >異国の地に眠っている戦友の御霊安かれと祈り、身も心も私財も惜しみなく投じる所存で参列している元兵士たち。 >そんな帰還者の家族として父親と参列した洋子さんは、「父が生きて帰って来たから自分は生まれた。 >だからお父様を亡くされたご遺族の前では何も言えないのよ」と呟きながらも、次のように語った。 >「遠藤さんにだけは話すけどね。 >父は普段はとても優しかったのよ。 >でもビルマのことになると人が変わったように殺気だって、戦友会の会合にも慰霊旅行にも最優先に出かけるような人でね。 >おかげで子どもの学費とか家族のための大事な費用がビルマのために使われちゃって、兄は大学に行ったけど私は大学に行けなかったの。 >そのことは今でも恨みに思っているのよ。 >ビルマ人の若者には奨学金まで出してあげたのに……」
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