>東洋経済オンライン >「何もしないほうが得」消極的な日本人増える背景 >太田肇の意見・ >4時間・ >近年明るみに出る企業の数々の不祥事。 >日本型組織はなぜ一斉におかしくなったのでしょうか。 >日本の組織を改善させる方法はあるのでしょうか。 >同志社大学政策学部教授で組織論を研究する太田肇氏の新書『日本型組織のドミノ崩壊はなぜ始まったか』を一部抜粋・再構成しお届けします。 >失敗してまでチャレンジしないほうが得 >衝撃的な調査結果がここにある。 >「仕事で失敗のリスクを冒してまでチャレンジしないほうが得だと思いますか?」という質問に対し、「そう思う」「どちらかといえば、そう思う」と回答した人が計65.5%とほぼ3分の2を占めた(n=522)。 >また「同僚として積極的にチャレンジする人と、周りとの調和を大事にする人のどちらを好みますか?」という質問には、「どちらかというと周りとの調和を大事にする人」という回答が68.2%と7割弱に達した(n=456)。 >その理由としてあげられたのは、「もめ事を起こしたくないから」「面倒を起こしたくないから」が多数を占めた。 >いずれも企業などの組織で働く人を対象にした私の調査(NTTコムリサーチに委託し、企業などの組織で働く男女を対象として2022年2月にウェブで行った調査。 >拙著『何もしないほうが得な日本――社会に広がる「消極的利己主義」の構造』PHP新書、2022年)の結果である。 >つぎのようなデータもある。 >総務庁(現総務省)青少年対策本部が1993年に世界11か国の青年に対して行った「第五回世界青年意識調査」によると、いまの職場で勤務を「ずっと続けたい」という回答は27.5%と11か国のなかで最低にとどまるいっぽう、「変わりたいが続けるだろう」という回答は28.4%と他国に比べて顕著に高かった。 >この調査から20年以上たった2016年、人的資源管理論などを専攻する経営学者の松山一紀は、同様の項目を用いて全国の「上司がいる部下」1000人にウェブで調査を行った。 >すると「この会社でずっと働きたい」という回答は25.4%と世界青年意識調査の結果と大差ないが、「変わりたいと思うことはあるが、このまま続けることになるだろう」という回答は40.5%と大幅に増えている(松山一紀『次世代型組織へのフォロワーシップ論――リーダーシップ主義からの脱却』ミネルヴァ書房、2018年、104〜105頁)。 >消極的な帰属意識が高まる >対象となる年齢層が異なるので単純な比較はできないが、消極的な帰属意識は以前よりいっそう強くなっている可能性がある。 >それを裏づけるような会計学者澤邉紀生の指摘は興味深い。 >日本企業の特徴は、予算目標をめぐって、トップとミドルの間でキャッチボールのようにやりとりが繰り返されてきたことにあった。 >トップは本社の考え方を理解してもらおうとして、ミドルは現場の現実にたって、お互いに理想と現実をぶつけあって粘り強く話し合う、これがキャッチボールの中身である。 >ここまで時間と労力をかけてキャッチボールを続けてきた背景には、現場を重視してきた日本企業の思想ともいうべき考え方が合(ママ)った。 >(澤邉紀生「会計と凡庸なる悪」『日本情報経営学会誌』第40巻第1・2号、2020年) >ところが2014年5月に行われた、城西国際大学の櫻井通晴客員教授と東芝財務部の松永靖弘企画担当グループ長との対談で、松永氏はトップとミドルとの間の「キャッチボール」が減ったことを認め、90年代ころまでは1次、2次、3次とやっていたが、いまは1回で終わらせており、だんだんプロセスを簡素化していると証言している(『企業会計』第66巻第8号、2014年)。 >東芝の不正会計が発覚する前の年の発言だけに、下からの主張が影をひそめ、一方的な上下関係に変化した組織が不正の温床になった可能性がうかがえる。 >対談のなかで櫻井教授も述べているように、キャッチボールが減ったのは東芝にかぎったことではなく、日本企業の一般的な傾向だといえよう。 >このように自ら行動しないし何も言わないという態度が、組織のなかで働く人たちの「常識」として定着、もしくは定番の処世術として徐々に浸透してきているようである。
安全第一ですね。‘雉も鳴かずば撃たれまい’ ということですかね。
>さらにその「常識」は組織で働く人だけでなく、日本社会全体に広がっている可能性がある。 >それを印象づけるシーンがあった。 >2017年8月に行われた夏の高校野球選手権大会の開会式。 >選手の入場が終わり、選手たちは各校のプラカードを掲げた女子生徒の後ろに並んだ。 >球場全体が静寂に包まれるなか、一人の女子生徒が突然、バッタリと倒れた。 >周りの選手や生徒たちがただちに助けに行くかと思いきや、だれ一人として自分から助けようとしない。 >しばらくたってようやく大会関係者に救護され連れられていった。 >自ら行動しない態度が広がる >このシーンはテレビの画面に映し出されたのでひときわショッキングだったものの、けっして特殊なケースではない。
‘触らぬ神に祟りなし’ ですね。火中の栗を拾うのは怖ろしいことですね。
>電車で痴漢に遭ったとき周囲の人は皆知らぬふりをしていたとか、雨のなかで倒れても目の前の人はだれも助けてくれなかったという体験談は山ほどある。 >むしろ助けてくれたという話が感動的な美談として語られたり、警察から表彰されたりするくらい「珍しい」のである。 >いずれにしても日本人の間に、自ら行動しないという態度が広がってきていることはたしかなようだ。
そうですね。日本人には意思がないですからね。優柔不断、無為無策ですね。
>そして、それは少なくとも短期的には個人にとって合理的なのかもしれない。 >一般に、人は過去の経験や想像にもとづいて損得を計算する。 >自ら行動することのプラス面としては獲得できる有形無形の報酬がある。 >そこには具体的な利益のほか、達成感や自己効力感(やればできるという自信)、周囲からの評価や承認、だれかのために役立てたという満足感など、心理的・社会的な報酬が含まれる。 >いっぽう行動することのマイナス面としては、心理的負担感や周囲からの嫉妬・反発、注目されることの恥ずかしさ、想定外のリスクに対する恐れなどがある。 >これらプラス面とマイナス面を天秤にかけ、マイナス面のほうが大きいと判断すれば行動を控える。 >「見て見ぬふり」をするのもその一つである。 >時間的な余裕があればそれを頭のなかで冷静に計算するが、余裕がない場合は直観的に判断する。 >このように個人にとって「何もしない」という選択にはそれなりに合理性がある。 >しかし見方によれば、きわめて利己的な態度である。 >なぜなら、それは「自分がしなくてもだれかがやってくれる」という甘え、あるいは「どうなってもしかたがない」という考え方につながるからである。
他人の事は知ったことではないですね。
>別の表現をすれば共同体の一員としての責任を果たさず、ただ共同体の一員としての恩恵にあずかろうとするフリーライド(ただ乗り)の姿勢だともいえる。
そうですね。安保ダダ乗りというのがありましたね。 ‘、、、本田様は、砂漠にただ一人、自生されたわけではありますまい。二十世紀の日本という社会に生まれ、何の権利もないのに、その社会の恵沢と栄誉を、当然のこととし負うておられます。従って本田様が「幼児であったから」「責任がない」と「いわれるなら、日本の伝統文化、それにつづく現代社会の恵沢と栄誉を受ける権利も放棄されたことになります。 、、、’ (イザヤ・ベンダサン: 日本教について)
>だから私はそれを「消極的利己主義」と呼んでいる(前掲、拙著『何もしないほうが得な日本』)。 >社会システムに何らかの欠陥 >「消極的利己主義」は、だれもが同じ態度や行動を取ったら組織が成り立たないので、普遍性に欠ける行動規準だといえる。 >にもかかわらず、それが個人にとって合理的だということは、有形無形のインセンティブが不足しているか、負のインセンティブが大きすぎるわけであり、社会システムに何らかの欠陥があることを意味している。
序列社会の評価方法は減点主義ですからね。負のインセンティブだけが大きいですね。
>ただ、積極的すなわち作為による利己主義に比べて、不作為による利己主義は気づかれにくく、問題を見えにくくしている。 >たとえていえば、公金を盗めば犯罪になるが、税金を滞納してもただちに犯罪になるわけではないのと似たようなものだ。
そうですね。それは用意周到というか ‘未必の故意’ ですね。[未必の故意: 犯罪事実に対する確定的な認識・認容はないものの、その蓋然性を認識・認容している状態。容疑者は最初は確定的な意図はなくとも、犯罪となるような事実が発生してしまい、もしもそうなっても構わないという心理状態]
|