2025年04月21日(月) 

 

>現代ビジネス   >「まともな政治家がいない」のは「平和ボケした国民のせい」…森永卓郎さんの息子・康平さんが”ぬるま湯”に浸った日本人に警鐘を鳴らす   >森永卓郎、森永康平によるストーリー・   >11時間・   

>今年1月28日、経済アナリストの森永卓郎氏が死去した。   

>原発不明がんと闘いながらも、亡くなる直前までメディアに出演し続け、世界経済の行方に多くの警鐘を鳴らしてきた。   

>「AIバブルは崩壊する…」「日経平均はこれから大暴落する…」   

>彼がこう語った背景には一体何があるのか。   

>そして残された私たちは、この先行き不透明な社会をどう乗り越えていくべきなのか。   

>「闘う経済評論家」として世の中の歪に注目する息子の康平が、父・卓郎の「最後の問題提起」を真っ向から受け止め、私たちのこれからの人生に必要な「解」を紡いでいくーー。   

>この国でそれでも生きていく人たちへ』連載第63回   

>真面目な政治家なんてほとんど居ない   

>経済アナリストとして日々マクロ経済のデータを見るようになって、つくづく思ったことがある。   

>それは、「政治家で日本のことを真面目に考えている人間はほとんどいないのではないか」ということだ。   

 

日本人には意思が無い。意思の無い人間には責任が無い。無責任な人には信頼がない。真面目人間に成れない。   

 

>日本経済が良くなる政策を体を張って通そうという政治家はほとんどいない。   

 

日本人には世界観がない。だから世の中を良くする考えが湧かない。   

 

>結局、利権や選挙のことしか頭にないのだろう。

 

日本人は現実肯定主義オンリーですね。非現実 (考え・哲学) がない。   

 

>ただ、そんな政治家を選んだのは我々国民だ。   

 

日本人は政治かも選挙民も無哲学・能天気ですね。    

 

>「政治が悪い」のは、結局のところ国民に責任がある。

 

そうですね。   

 

>そもそも、政治の誤りのツケを払うのは国民だ。   

>エネルギーの問題についても、反対に屈せず、きちんと向き合っていかなければ、いずれ痛い目にあうのは日本国民なのだ。

>次世代のために、変わる、変える。   

>では、なぜまともな政治家が選ばれないのか。   

 

無哲学・能天気の社会においては真面目な政治家に成ろうという人も、真面目な政治家を選ぼうという人もいませんね。   

 

>結論を言うと、「平和ボケ」のせいではないかと思う。   

 

そうですね。泰平の眠りですね。   

 

>過去数十年間にわたって、日本はずっと平和だった。   

>誰が首相になろうとも、飢え死にすることもなければ、戦争に巻き込まれることもなかった。   

>そんなぬるま湯の状態が続いた結果、日本から「選挙で正しい政治家を選ばなければ、自分の命の危険に直結する」という緊張感が失われてしまった。    

>一方、政治家のほうでも、国民の期待に応えるよりも、利権や選挙、党利党略を優先してきたので、政治への信頼はすっかり失われてしまっている。    

>かく言う私も、もし子どもがいなければ、政治に関心を持たず、「国がどうなろうと自分には関係ない」と考えていたかもしれない。   

>実際に子どもが生まれるまでは、日本に何かあれば海外で暮らせばいいと考えていた。   

>しかし、子どもが生まれてからは、次世代のために、夢も希望もない、政治家も官僚も腐っている国を、変えなければならない。   

>そう思うようになった。   

>もちろん、子どもを持つかどうかは個人の自由だが、私自身はそれをきっかけに政治に関心を持つようになったということだ。   

>いずれにしても、日本人が政治のことを真剣に考えるようになれば、日本はもっと良い方向にいくだろう。   

 

そうですね。    

子供には現実 (事実) ばかりがあって非現実(哲学・考え) がない。

英米流の高等教育は子供に哲学を獲得させるための教育である。

英米流の高等教育は子供を大人にする為の教育である。

子供が思春期になって、言語能力が飛躍的に増大するのを待って高等教育が行われる。

 

英語の文法には時制 (tense) というものがあって独立した非現実の三世界を表現することができる。

未来時制の構文を使えば自己の意思を表すこともできるようになる。    

自己の意思を表すと加害者意識も経験することになる。

それが高じて罪の意識も理解できるようになる。罪の告白も可能になり入信する人もいる。   

深い反省にも陥ることもあるので原因の究明が行われる。     

事故の原因究明がうやむやにはできない様な心構えになる。

 

魂の救済を必要とする人も出て来る。   

贖罪のための宗教 (キリスト教) も重要になる。   

こうした過程を経て浅薄な人間が思慮深い人間に変身する。   

だからどこの国でも高等教育に力を入れることになる。   

 

哲学は非現実 (考え) の内容であるから、思考を停止している日本人には縁がない。

日本語は現実の内容だけを話す言語である。写生画の言語であるとも言われている。   

日本式の判断だと見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。   

だから現実の言葉 (日本語) を話す人が非現実を語る学習をすると常に失敗する。   

嘘ばかりついていては学習に力が入らない。だからわが国は英米流の高等教育の導入に失敗した。何処の国も日本に我が子の高等教育の成果を期待する親はいない。  

 

今の地球はアングロ・サクソンの支配体制にある。哲学が相手を引き付けて人々の尊敬を得る。アフリカ系米国人はアメリカの大統領になった。インド系英国人は英国の首相になっていた。これらは高等教育の賜物である。インド人は印欧語族であるからアングロ・サクソンと相性が良い。   

 

当の日本人の若者はいまなお序列競争にうつつを抜かしていて、教育内容の吟味などする余地はない。   

難関出身者が序列社会で優位に立つことばかりを気にしている大型の子供たちである。

世界に対する注意力不足で井の中の蛙になっていて、国際取引で印欧語族を取引相手にして苦戦を強いられることになる。     

 

「中国は悪だが、日本はもっと邪悪だ、中国にダンピングや過剰生産の方法を教えたのは日本だ」「日本は1945年から何も学んでない。米国がいかに優れていて、寛大なのか、分かっていない」 (クリフス社のゴンカルベスCEO)   

日本人には現実があって非現実がない。日本人の教育は戦前戦後を通じて実学 (技術) があって、虚学?(哲学)がない。だから‘あるべき姿’を追求する学問がないので高尚な議論が出来ない。欲得ずくのかけひきしか考えていない。それで日本人は相手からの信用が得られない。  

日本人には意思がない。だから加害者意識も無く、罪の意識もない。在るのは被害者意識だけである。天真爛漫としていて、自分自身が邪悪などとても信じられない。だから子供じみている。  

 

ヒットラーは勝算を見込んで (理性判断) 戦争に突入した。

日本人は勝算を見込むことなく (盲目の判断) 戦争に突入した。

マッカーサ元帥は1951年5月5日の上院合同委員会で日本人を以下のように評していました。  

‘もしアングロ・サクソンが人間としての発達という点で、科学とか芸術とか文化において、まあ45歳であるとすれば、ドイツ人もまったく同じくらいでした。しかし日本人は、時間的には古くからいる人々なのですが、指導を受けるべき状態にありました。近代文明の尺度で測れば、我々が45歳で、成熟した年齢であるのに比べると、12歳の少年といったところ like a boy of twelve でしょう。 

指導を受ける時期というのはどこでもそうですが、日本人は新しい模範とか新しい考え方を受け入れやすかった。あそこでは、基本になる考えを植え付けることができます。日本人は、まだ生まれたばかりの、柔軟で、新しい考え方を受け入れることができる状態に近かったのです。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて 下)  

マ元帥の発言はどの駐日大使のものよりも率直でしたね。外交辞令がない。彼は知日派の人であった。だが、日本人は彼が考えるような知恵遅れの民族ではない。日本語文法には時制 (tense) というものが無いのである。待てど暮らせど非現実 (考え・哲学) を搭載する構文は日本人の口からは出て来ない。つまり自己の考えの内容が出て来ない。これが英米人の子供の行く末と違う所である。    

 

 ‘(略) しかしいったん、大学に入れば、控えめに表現しても、成績と出席の基準はたるんでいる。大学を含め、日本の子供たちが習うものごとの中核は、主として十八歳までに吸収される。’ (フランク・ギブニー)     

なるほどこれでは日本の大人が子供じみて見えてもしかたがないですね。わが国の学歴社会は序列社会の言い換えにすぎない。   

「うん、頭はいい。しかし本当に信頼できるかね」 (フランク・ギブニー) 

‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’ (あるアメリカの国務長官)   

日本人の無哲学・能天気はついに国際的にも知られるようになったようですね。   

 

日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく:  世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望が無い。

イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。   

何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)     

 

 

 

 

 

 

 


閲覧数15 カテゴリアルバム コメント1 投稿日時2025/04/21 22:55
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