>ダイヤモンド・オンライン >「高学歴と低学歴の差はなぜ簡単に埋まらないのか」。学歴がすべてではない世界だからこそ映し出される真実 >ビーヤマによるストーリー・ >6時間・ >「大学受験」は10代における最大のイベントです。 >残念な側面でもありますが、いい大学にいけば、なりたい職業になれる確率は上がり、将来の選択肢は増えるのが現在の日本です。
江戸時代は変えることのできない身分制度。夢も希望もない世の中。 明治以降は変えることの可能な学歴社会。日本人は新手な序列・学歴に望みを託した。これは学問に名を借りた序列競争である。学問は個性の産物、人間序列は没個性の産物である。 「過去に自分自身、教育熱心な親のせいで不登校になり苦労した。・・・あまりに度が過ぎると子どもがぐれ、・・・罪を犯す・・」戸田佳孝容疑者(43) 序列は序列人間である日本人に生涯付いてまわる。それは日本語文法に階称 (言葉遣い) があるからである。人間序列は没個性に基づく比較である。だから、個性教育の大敵であり、自己実現の妨げになる。 礼儀正しい日本人になることも難しい。日本人の礼儀作法は序列作法になっている。だから日本人の礼儀は倫理道徳が欠けている。
>それほどまでに大学受験の持つインパクトは大きくなっています。
これは形を変えた序列人間の身分制度ですね。
>そんな難しい時代でも「自分らしい大学進学」をするために書籍:『17歳のときに知りたかった受験のこと、人生のこと。』が発売されました。 >本書は、きれいごとを抜きにして、「大学受験とはどういうものなのか」「人生とはどういうものなのか」を考えることができる受験の決定版です。
日本人の大学受験、日本人の人生というべきですね。日本人は大海を知らない。
>本記事では発刊を記念して著者である、びーやま氏への特別インタビューをお届けします。
>学歴の影響はどうしてこれほど大きいのか >――日本はよくも悪くも学歴社会です。
日本人の記事は実況放送・現状報告の内容ばかりで、読者のためになる所が少ない。‘それでどうした、それがどうした’の問いに答えを出せる人が必要である。我々は自己の見解を述べる教育を受けてこなかった。自己の見解を示せば学位 (博士号など) が得られる。自己の見解を含まない発言には価値が少ない。我が国には社会の木鐸 (ぼくたく: 世の人を教え導く人) が必要である。そうでなければわが国は迷走し続けて、いつまでたっても何処にも到達しない。だから、若者にも夢と希望を与えることがない。
>当然、高学歴が有利とされる社会かと思いますが、実際はどうなのでしょうか。 >びーやま氏(以下:びーやま):たしかに日本では学歴があれば有利になります。
学歴は形を変えた身分制度ですね。
> 新卒採用の「学歴フィルター」がその最たる例ですし、就職したあともなにかと学閥があったりしますから、まったく無意味ということはないでしょう。 > 大人になったら学歴は関係ないという人もいますが、そんなことはなくて、もしそうだとしたら、新聞に載る経営者のプロフィール欄は出身大学からはじまりませんし、お茶の間に流れるクイズ番組は大学ごとでチームになることはありません。 >どう考えたって学歴は関係あります。
そうですね。学歴が新しい序列に成りました。
> ただ、一方で日本のいいところは学歴社会である前に実力社会であることです。 > どんなことであれ、実力があれば認められます。
実力主義は西洋人のやり方を真似たものでしょう。
>その意味では実力のひとつとして学歴があるイメージです。
義理と人情の世の中ですね。
>――よく理解できました。 >ただ、学歴が実力のひとつだとしても、あまりに影響が大きすぎませんか?
そうですね。学歴は国定ですね。履歴書の内容ですね。序列人間の拠り所ですね。
>学歴だけインパクトが特別大きい印象があるのですが。 >びーやま:そうですね。 >ただ、それは仕方のないことなのかなと思います。
そうですね。序列人間の半ば運命ですね。
> その理由は主に2つあって、1つは学歴の汎用性が高いからです。
そうですね。汎用性の低いものは序列社会では役立ちませんね。
>ほかのものと違って学歴が使える場面は限りなく広いです。
学歴は国定ですからね。序列国家の基礎ですね。
> 先ほど挙げた就活はもちろんのこと、日常の何気ない場面だって、実態はさておき学歴は頭がいいことの証明になります。 >皆さんだって「○○さんって東大なの? 頭いいね!」という旨の会話を一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。 > どんな場面であれ、学歴があるだけで、問答無用に「頭がいい」と考えるのが一般的ですから学歴のインパクトは大きいのでしょう。
序列は没個性の社会における人間観でしょう。
>「大学名=学歴」になったのはどうして? >――もうひとつの理由はなんですか? >びーやま:大学受験を多くの人が経験しているということです。 > スポーツでどんなに活躍したって、その競技を経験している人の数が大学受験を経験した人の数を上回ることはまずありません。
スポーツは個性的な結果です。ですから、没個性の国定にはなりません。
> 要するにそのくらい大学受験や、その結果というのは誰にとっても身近なものであり、自分ごとになりやすいのです。
要するに分かりやすい序列が序列人間に基準になるということです。
> その大変さを多くの人が共通認識として持っているという点で学歴は基準になりやすいと言えるでしょう。
そうですね。学問に名を借りた序列争いがこの国の人間序列の基準になりました。その学歴が学問の発展にあまり寄与していないところが玉に瑕ですね。
>――よく理解できました。 >ただ、学歴という意味だと大卒はあくまで大卒であり、東大が上で、そのほかが下とかはないですよね? >どうして、そこには序列が存在するのでしょうか。
わずかな差を見つけて上下を論ずるのが序列人間の特技ですね。品定めは昔から日本人に楽しみでしたね。
>びーやま:時代が大きく関係していると思います。 > かつては大学にいくだけですごいという時代でしたが、今ではそうではありません。 >選ばなければ誰でも大学に進学できます。 > そうなったときに、なにが基準になるかといったら難易度を指す偏差値が大きな指標として機能するようになったのでしょう。
ものの上下を論ずるのは日本語の文法 (階称) の要請ですね。
> また、どこからが高学歴というのは誰かが明確に線引きしたものではなく、世間の空気的になんとなく決まっているものです。
日本人は、気分・雰囲気・感情に判断力を左右されますからね。これは、歌詠みの特徴ですね。内容がないから議論にならなりません。趣味には論拠がない。There is no accounting for tastes.
>そのため「大学に序列などない!」といった議論をすること自体、意味はあまりないと個人的には思います。
そうですね。日本人の空想・幻想ですね。
>実際そこには序列が存在するわけですから、序列を否定するのであれば、その人自身がなにかしらの行動を起こして序列のない世の中にしていけばいいのではないでしょうか。
そうですね。だが日本人には意思がない。
> ただ一点フォローするとすれば、誰もが偏差値の高い大学に行けばOKだとは僕も思いません。 >ですが、その人が目指せる一番上の大学を目指してほしいなとは思います。 >人によってはそれが東大でしょうし、人によっては地元の国公立でしょう。 >MARCHだって、日東駒専だって構いません。 > どんな大学であれ、その人がちゃんと努力をしないと入れない大学を志望してみてほしいなと思います。 >高い目標を持って勉強をするのはすごくいいことですし、偏差値的に行ける大学をなんとなく目指すのは、残念ながらあまり成長につながりません。 > 最初は無謀でもいいから、「行ける大学」よりも「行きたい大学」を目指してみてほしいです。 >高学歴と低学歴はなにが違う? >――なるほど。 >よく理解できました。 >ちなみに、偏差値の高い学生と低い学生でなにか差はあると思いますか? >びーやま:確実にあります。 > それは世の中を自分ごととして見られるかどうかです。 >――どういうことでしょうか。 >詳しく教えてください。 >びーやま:偏差値の高い学生というのはとにかく何事も自分ごとなんです。 >それは目の前の問題と自分の知識を頭のなかでうまく接続できるということですし、その機会も多いということでもあります。 > よく、「算数や数学は大人になったら使わない」という言葉を耳にしますが、これは高学歴の学生からはまず聞きません。 >なぜなら、算数や数学がどんな場面で使えるか知っている、もしくは考えることができているからです。 > 対して、偏差値の低い学生というのは、どんな問題もどこか他人ごとなんです。 > 多くの問題は自分の解決すべきものではなくて、「誰かがどうにかしてくれる」。 >そう考えています。 >そのため、評論家ぶって文句を言うだけにとどまってしまうのです。 > 文句があるなら自分で変えられるように行動すればいいのにそのことに気がつかない。
そうですね。成らぬは人の為さぬなりけり。
> この差は非常に大きいのではないでしょうか。 > 高学歴と低学歴は偏差値だけの差に思われがちですが、そんなことは当然なくて、こういった生きる力で差が出るのです。 > そもそも受験で学ぶことの多くは頭のいい人たちが選び抜いた内容です。 >それは相当吟味されているわけですから意味がないわけないと気がつかなければいけません。 >その背景を読み取れるかどうかという意味でも高学歴と低学歴の差は出ます。 > なので、多くの受験生には「意味がない」なんてことは言わずに、目の前の勉強に取り組んでほしいと思います。 >必死になって勉強したことは人生に役に立ちますし、無駄なんてことはありません。
そうですね。
> ぜひ、全力を尽くして、自分の納得いく大学に進んでほしいと思います。 >――本日はありがとうございました。大変勉強になりました。 >びーやま[著] >高田ふーみん[協力]
日本語の文法には階称 (言葉遣い: hierarchy) というものがある。だから日本語を発想する場合には、‘上と見るか・下と見るか’ の世俗的な判断が欠かせない。上下判断 (序列判断) には、通常、勝負の成績が用いられる。近年では偏差値なども都合の良い資料として利用されている。だから難関出身者たちが社会で幅を利かせている。わが国が学歴社会であるというのも、実は序列社会の言い換えに過ぎない。だから、わが国の学歴社会は学問の発展には何ら貢献していないことを知っている必要がある。 順位の比較は没個性的でなくてはならない。だから、序列競争の励みは個性の育成にはならない。
日本人の礼儀作法も、序列作法に基づいている。だから、序列社会の外に出たら序列なきところに礼儀なしになる。礼儀正しい日本人になる為には、世俗的な序列順位を心得ている必要がある。'人を見損なってはいけない' という想いが強迫観念の域に達していて、人々は堅ぐるしい日常生活を送っている。ため口を禁じられているので、相手と対等な立場でものをいう事ができない。人間が真に平等であるという実感を体験したことがない。こうした観念は天皇制・家元制度・やくざの一家の構造にまでつながっている。
日本人は序列の存在を知れば、それが一も二も無く貴いものであると信ずる共通の序列メンタリティを有している。その程度は序列信仰の域に達している。日本人の尊敬は、序列社会の序列順位の単なる表現に過ぎないため、個人的精神的には意味がない。下々の衆は上々の衆の祟り (仕返し) を恐れて神妙にしている。上々が無哲学・能天気である事については、下々にとって何ら気になることではない。だから、日本人の尊敬と序列作法には浅薄さが付きまとう。
日本人の政治家にも、政治哲学がない人が多い。だから、我々の未来社会の有様を相手に言って聞かせる術がない。それは非現実 (考え) の内容を盛り込むための構文が日本語に存在しないからである。序列人間は人間の序列を作っていて、上位の者 (先輩) と下位の者 (後輩) の間に自分を差し挟むことにより自分たちの存在をウチソト意識として確認し合っている。だから、自己の所属する序列に並々ならぬ帰属意識を持っていて義理 (序列関係から生じる義務) を果たすことに懸命になる。そして、定刻通りに帰宅しないなど義理の仕事にやりがいを感じている。無哲学と序列メンタリティの相乗作用により派閥政治は無くならない。周囲の序列仲間が自分たちの序列に対する貢献度を評価する。これにより自己の順位は上昇する可能性がある。それが日本人の人生における楽しみである。だが叙勲の機会獲得は難しい。
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