2026年01月08日(木) 

 

>現代ビジネス   >昭和天皇の「激怒」が日本の行く末を決めた…50年仕えた侍従が語った日本を揺るがしたクーデターの衝撃的な一部始終   >週刊現代 (講談社・月曜・金曜発売) によるストーリー・   >10時間・   

>宮内庁は昨年にインスタグラムを開設し、本年4月からはYouTubeも始動した。   

>SNSにより人々の皇室との接点は格段に増えたが、我々が触れられるのは画面越しの“表層”に過ぎない。   

>いつの時代も、皇室という厚い帳の奥にある人間としての素顔を知り得るのは、苦楽を共にする限られた側近のみである。  

>かつて、そんな閉ざされた聖域で、昭和天皇の“影”のように50年間を過ごした侍従、入江相政。   

>彼がその目に焼き付けたのは穏やかな日常だけではなく、激動の時代に翻弄されながらも国を背負い続けた陛下のありのままの姿だ。   

>「週刊現代」1985年1月9日号より再編集して、昭和天皇の実像をお届けする。    

>第1回 陛下に仕え続けた50年間   

>私が、陛下のお側に出たのは昭和9年の10月、ついこの間、満50年になった。   

>こんなに長い間仕えようとは思わなかった。   

>よくもよくもつとめたものである。    

>そもそも大正の末に、東大へ進もうというとき、どうしても文学部へ行きたいと思った。   

>千二、三百年来の、日本人の心の移り変わりというようなものをつきとめたいという、ただその一筋によってであった。    

>昭和4年に卒業して、すぐ学習院の講師になった。   

>しばらくして昭和8年に教授、私としては、自分の進みたい道に、首尾よく踏み込むことができたのだから、なにもいうことはなかった。   

>一生こういうことで過ごそうと思っていた。    

>ところが突然まったく突然、侍従になれということになった。    

>「このままに置いといてくれ」などと、少しはいってみたが、所詮はそれまで、侍徒になってしまった。    

>昭和9年という年は、満州事変が一段落して、日本はかりそめの平和を享受していた。    

>陛下は大正天皇がご病弱だったために20歳で摂政にご就任になり、即位後も数々の難局に直面なさった。   

>張作霖爆殺事件に続く満州事変は、後に続く激動の時代を暗示するものだったが、それだけにこのひとときは貴重なものだった。    

>かりそめの平和に終止符が打たれた日      

>だから陛下も毎週、午後、別に行事がなければ、月、水、金は乗馬、火、木、日はゴルフというように、わりにのどかにお過ごしになっていた。   

>夏になると、陛下は葉山の海でヒドロゾアの採集や水泳を楽しみになった。   

>そのお供をするのは、30を越したばかりのつとめ人としては、まことに健康的ないい生活だった。    

>それが、私が侍従になってから1年4ヵ月たった11年2月に、例の二・二六事件が起こった。   

>25日、東京では珍しい大雪。   

>陛下は吹上御所の北向きのスロープで、侍徒たちとスキーをお楽しみになった。    

>翌26日午前5時、私は侍従職からの電話で、鈴木貫太郎侍従長が暴漢に襲われて重傷を負ったのを知らされた。   

>急いで出勤すると、湯浅倉平宮内大臣が両手を大きく広げて「血がいっぱい」とだけいって、顔をしかめた。    

>岡田啓介総理は生死不明。    

>現役の陸軍将校の手によって、高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監の3人は惨死。    

>侍従長は瀕死の重傷という大事件である。   

>事件をひきおこした何名かの将校と、それにそそのかされ、率いられた兵とは、赤坂の料亭「幸楽」などにたてこもり、たむろしているという。    

>日本が一変した「二・二六事件」    

>宮殿の東一、二の間には、軍事参議官、枢密顧問官、陸軍大臣などが詰めかけて、ものものしい雰囲気だった。    

>その中で、陛下は、何度となく侍従武官長の本庄繁大将をお召しになった。    

>30分か40分して御前を下がると、またお召し。    

>侍徒が飛んで行く。    

>廊下で本庄大将をつかまえて、御前に出す。    

>26日も27日もこれのくりかえしであった。    

>軍当局が暴徒を蹶起部隊とか義勇軍という名で呼ぼうとまでしたが、陛下は大変お怒りになり、「なぜ早く鎮めないか。   

>さもなければ自分が出る」とまでおっしゃったと聞いている。   

>陛下はこのとき、初めて政治的決断を下され、「反乱軍」とお決めつけになった。    

>陛下はのちにこうおっしゃった。    

>「私はいままでに立憲君主としての道を踏みちがえたことが二度ある。    

>終戦のときと、もう一度は二・二六のとき。   

>あのときは総理大臣が生きているのか死んでいるのかわからなかったから」    

>あの朝から日本は一変した。    

>もし、陛下の毅然たるご決断がなかったら、日本はそのまま暴逆の深淵に沈んでいただろう。    

 

日本人には意思がない。意思のない人間には責任がない。責任のない人には信用がない。信無くば立たず。(政治というものは 民 (民衆) の信頼無くして成り立つものではない。) [論語・顔淵]   

 

>『昭和天皇の「一言」が戦争を終結に導いた…50年仕えた侍従が語った、日本国民を救った昭和天皇の“勇姿”』へ続く。   

 

たとえば【英対する開戦の詔勅】では

洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ

(まことにやむをえざるものあり。あにちんがこころざしならんや。)

開戦はまことにやむをえないことで、私の本意ではない。   

となる。  

天皇の意思でなければ一体誰の本意で我が国の意思決定が為されたのでしょうか。  

日本人には意思がないが恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。意思決定 (理性判断) の必要なところで恣意決定 (盲目の判断) を行うことになる。これはきわめて危険な行為である。  

阿呆は戦争大好きで亡国の精神の持ち主である。「戦は時の運」とか「戦うも亡国、戦わざるも亡国、戦わずして破るるは、国民の魂も失う真の亡国なり」という言葉があって、わかっちゃいるけどやめられない。ア ホレ スイスイ スーダララッタ 、、、、、、、、

'敗因について一言いはしてくれ。我が国人が あまりの皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである。我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである'  (昭和天皇)   

 

>「週刊現代」1985年1月19日号より   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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