鈴村祐輔氏 |
>ニューズウィーク日本版 >日本のイメージは「フジヤマ・サムライ・ゲイシャ」のまま。「正しい日本」を伝えるための「発信」とは? >鈴村裕輔 アステオンによるストーリー・ >6時間・ ><日本文化の発信は「送り手」の意図を超えてズレる、常に多様な読み取りを生み出す営みである>
そうですね。
>われわれが何らかの情報を発信する際、発せられた情報の内容に注目しがちである。 >そこには伝えたいメッセージや発信者の意図が込められているため、送り手の側に焦点が当たるのも当然であろう。 >しかし、情報発信には必ず想定される受け手が存在する。 >「何を伝えたか」だけでなく、「何が伝わったのか」も重要なのだ。
本人の意図した内容が相手に伝えられているかが大切ですね。
>しかし現実には「伝えたかったこと」と「伝わったこと」が一致しないという事態は、日常生活でも頻繁に起きている。 >そのずれを象徴するのが、1937年に制作された日独合作映画『新しき土』(監督:アーノルト・ファンク)である。 >外国人に「正しい日本」を伝えうるという理想の下に企画されたこの作品は、実際には西洋の視点から異文化として日本を眺める構図を強調するものとなり、結果として目的は失敗に終わった。
イザヤ・ベンダサンは、自著 <日本人とユダヤ人> の中で ‘自らの立場’ について以下のように述べています。 何処の国の新聞でも、一つの立場がある。立場があるというのは公正な報道をしないということではない。そうではなくて、ある一つの事態を眺めかつ報道している自分の位置を明確にしている、ということである。 読者は、報道された内容と報道者の位置の双方を知って、書かれた記事に各々の判断を下す、ということである。 ・・・・日本の新聞も、自らの立場となると、不偏不党とか公正とかいうだけで、対象を見ている自分の位置を一向に明確に打ち出さない。これは非常に奇妙に見える。 物を見て報道している以上、見ている自分の位置というものが絶対にあるし、第一、その立場が明確でない新聞などが出せるはずもなければ読まれるはずもない。・・・・・ (引用終り)
>以上のような観点から『アステイオン』103号のを眺めると、きわめて興味深い表情が浮かび上がる。 >特集の冒頭に掲載された千玄室と佐伯順子の対談「丸い茶碗のなかの地球」は、一見すると茶の湯の持つ伝統性や文化的な意義を強調しているかのようである。 >確かに、裏千家の家元として千利休以来の茶の湯の伝統を継承するとともに、茶の湯を世界に普及させるために生涯を捧げた千玄室の取り組みが紹介される箇所では、ヘンリー・キッシンジャーやリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーの言葉を通して、日本の文化や伝統の象徴としての茶の湯の価値が示されている。 >だが、「メタバースのお茶会」についてのやり取りの中で「今の若い人たち」の試みを「新たな挑戦によって、新しい表現を生み出してくれるはずです。」(37頁)と肯定的に評価するのは、伝えたい姿だけでなく、これからを担うであろう若い世代がどのように茶の湯を受け止めているのかを理解した一言である。 >これは、戦前から戦中、そして戦後という価値観の劇的な変化を通して茶の湯を守り通してきたからこその発言でもあり、また世界各地への普及活動を通して、多様な価値観の併存を知悉(ちしつ)してきた千玄室ならではの観点でもあろう。 >一方、フレデリック・クレインスの論考「」は、外国人だけではなく日本の人々も多くの場合自己の表象として用いる「サムライ」について、いかにして史実に基づいた像を確立すべきかを説く。 >高度に情報化が進み、時間や場所を選ばず情報を得られる現在においても、「フジヤマ・サムライ・ゲイシャ」という古典的ともいうべき日本への理解は残り続けている。 >むしろ、情報が多様化するからこそ、自分たちが抱きたい像を持ち続けているといえるかもしれない。 >事情は日本の人たちも同じで、自らを「サムライ」、外国の人たちや企業などを「黒船」と呼称するような状況は、「フジヤマ・サムライ・ゲイシャ」という表現を裏側から照らし出しているだけにすぎない。 >それだけに、クレインス論考が描き出す日本像の変遷は、「サムライ」そのものの像を直ちに変化させることは難しいものの、武士を取り巻く社会的、文化的な状況を丹念に検証し、情報として発信し続けることで漸進的ではあっても固定化された見方を解きほぐすために有効であることを明らかにしている。 >あるいは、桑原ゆうの「日本音楽の本質とは」は、聞くという感覚に直接訴えかける音楽のあり方を通して、西洋の音楽と日本の音楽の対比や融合といった局面に留まらず、日本語の身体性という点へと至る、刺激に満ちた論考である。 >自覚的であるか否かを問わず、言葉は話し手や話し手が属する集団の歴史と文化を含んでいる。 >そして、言語は話し手が養ってきた身体技法と相互に影響を与え合っている。 >文化人類学者の川田順造が種々の論考で明らかにしたように、日本語は求心性を、印欧語系の諸言語が遠心性を備えていることは、「いってきます」が他所へゆくだけでなく出発点に帰ってくることを示唆する一方、同様の意味を持つ英語の 'I am going to somewhere'という表現がある場所へ行くことだけを示している点からも推察される。
そうですね。日本は高文脈文化、印欧諸国は低文脈文化ですからね。 [高文脈文化と低文脈文化の比較の例] 《高文脈文化》の特徴: 言葉以外に状況や文脈も情報を伝達する。重要な情報でも言葉に表現されないことがある。/ 曖昧な言語 / 一般的な共通認識に基づく / 双方の合意に基づいた契約でも状況によって柔軟に変更される。/ 感情的に意思決定される/沈黙は不快ではない / 《低文脈文化》の特徴: 伝達される情報は言葉の中で全て提示される。/ 正確性が必要とされる言語 / 言語に基づく / 双方の合意に基づいた契約の変更は容易ではない。/ 論理的に意思決定される / 沈黙はコミュニケーションの途絶として不快 / 出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』
>こうした点を考えれば、音楽の中に身体性を見出す桑原の指摘は、旋律や調子、楽器の使い方といった表層的な観点から日本の音楽や西洋の音楽といった検討を行うことの危うさを明快に示していることが分かるのである。 >これ以外にも、国際博覧会(橋爪紳也)、食(/)、あるいは華道(池坊専好+佐伯順子)などについての論文や対談を掲載するのが、特集「発信する日本文化」である。 >このような話題の豊かさは、それだけ日本文化に関する研究が多岐にわたるとともに、受け手も様々な視点から日本の文化に接していることを物語る。
受け手の様々な視点でなく、話者の統一した視点の把握が大切ですね。
>そして、日本において日本文化の研究や普及活動が発展してきただけでなく、日本以外の国や地域における取り組みが重要であることは、マテリアルターンやビジュアルターンの事例からも伺われる。 >『アステイオン』の日本文化の特集は2014年に刊行された以来11年ぶりである。 >当時の「共有される日本文化」が「発信する日本文化」へと能動的な題名に変化したことは、この11年間における日本の文化のあり方の推移を直観的に示す。 >それだけに、次に『アステイオン』が日本文化の特集を組む時に果たしてどのような表現が使われるのかは大いに注目されるし、新たな表題を通して、われわれは日本文化のあり様をより的確に理解することができるだろう。 >鈴村裕輔(Yusuke Suzumura) >1976年、東京生まれ。 >法政大学博士(学術)。 >法政大学講師などを経て現職。 >専門は比較思想、政治史、比較文化。 >主著に『政治家 石橋湛山』(中央公論新社、2023年)がある。 >日本のイメージは「フジヤマ・サムライ・ゲイシャ」のまま...「正しい日本」を伝えるための「発信」とは? >© ニューズウィーク日本版 >『アステイオン』103号 >公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会[編] >CEメディアハウス[刊]
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